7月19日 軽井沢 5日目
目覚ましが鳴ったが起きられず、布団の中で寝返りを打ち続けた。なんとか起きあがったのは午前8時。犬たちが「遅いじゃない」という表情を浮かべてまとわりついてくる。
昨日のスープの残りを二〇穀米入りのご飯にかけ、レンジでチンしたムキガレイの身をほぐしていれる。仕上げにヨーグルトを小さじ1。ワルテルの腹の具合をすっかり失念していたことに気づいたのは、食後すぐに、ワルテルがトイレシートの上に下痢便をしたときだった。
ご飯をもう少し減らすか・・・トイレの後始末をし、シリアルを胃に送り込みながら考えたが、今日は二匹を地元の病院に連れていく日だったことを思い出した。マージの体調を把握してもらい、ワルテルにワクチン注射をしてもらう予定なのだ。その時、医者に相談すればいい。
二匹を車に乗せて、スポーツパーク軽井沢のドッグランに向かう。空は薄曇り、少し冷たい風が吹いて犬と遊ぶには絶好の日和だった。
フリスビー大会が終了して、ドッグランの周囲はしんと静まり返っていた。他の犬がいないことを知って、ワルテルは昨日とは別の犬のように駆け回る。ドッグランの木立の中を風が吹き抜けて気持ちのいいことこのうえない。
わたしはマージを見つめ、語りかけた。
「マージ、今日も走ってみるか?」
マージは尻尾を振った。もちろん、今日だって走れるのだ。
「行くぞ」
わたしはゆっくり駆けだした。マージが顔を輝かせながらついてくる。気のせいか、昨日の夜より足取りが軽いように思える。5メートル走っては歩きに変えて休み、また5メートル走る。マージは息を荒げながら、それでもちゃんとわたしの後を走ってくる。マージのことばかり気にかけているわたしが気にくわないのか、やがてワルテルがわたしのそばを離れなくなった。自由に遊んでこいといっても、知らんぷりだ。
しかたがない−−わたしはウェストポーチからテニスボールを取りだした。ドッグラン内ではボール遊びは禁じられているのだが、他に犬はいないのだ、かまうことはないだろう。わたしはボールを投げた。ワルテルが弾丸のように跳んでいく。マージは目を細めて風の匂いを嗅いでいた。
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| 楽しいぜっ。 |
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旧軽井沢菊池動物病院には、前もってマージの病状を伝えてあった。菊池先生は診察室に入ってきたマージを見て目を丸くする。
「とても元気そうですね」
まずは二匹の体重を計る。マージは26キロ。全盛期には38キロあったのに、3分の1の肉や脂肪が失われてしまった。今のマージの身体は骨張っている。牝犬らしいふくよかさは癌細胞に冒されて消えてしまった。
ワルテルは33キロ。去年の暮れに計った時には36キロだったのに、3キロも減っている。が、不健康な感じはどこにもない。軽井沢に来て走り回っているおかげで引き締まったのか。菊池先生も問題はないでしょうということだった。
ひととおりの診察を終えて、今のマージに特別な問題はないという話を伺った。組織球症という病気を患っているにしては元気だし毛艶もいい。体重が少ないことが心配といえば心配だが、すぐに様態が悪くなるということはないだろう。
ほっとしながら先生の話に耳を傾けた。ワルテルのワクチン摂取は、体調が万全な時の方がいいということだったので、後日お願いすることにした。
菊池先生とその奥方(多分)が、駐車場を出るまで見送ってくれた。信用できる獣医師を見つけるのは難しい。とりあえず、菊池先生は大丈夫なようだ。
* * *
近所のマツヤというスーパーで買ってきたソースカツ丼を腹に詰め込んで、仕事に没頭する。軽井沢に来てから仕事が遅れ気味だったのだが、ここに来て尻に火がつきはじめた。湿度も気温も低く、除湿器を運転させて扇風機を回していると少し肌寒いぐらいだ。表に出て、きりっと冷えた白ワインを飲みながら葉巻をふかしたらさぞ美味だろうな−−そんなことばかりが頭をよぎる。
それでも自分に鞭をくれ、なんとかノルマを達成した。
犬たちと外に出て、また、走る。マージが懸命についてくる。ワルテルはとっととわたしを追い越して、好き勝手に駆け、跳ねている。
30分ほど経つと、マージが別荘の前に移動して動かなくなった。くたびれきってしまったのだ。ワルテルはまだ遊び足りなさそうだったが、別荘に戻った。マージは荒い呼吸を繰り返し、涎を垂らしまくっている。よほど疲れているのだろう。だが、いつもと同じでその表情は緩みきっている。
ケーナインヘルスに羊の骨入り挽肉で晩ご飯の支度。もちろん、ワルテルはいつもの半量だ。
自分用にジャガイモのスープを作り、ペンネを茹でてアラビアータにする。それから、軽井沢産の粗挽きソーセージを焼く。
犬たちもわたしも、満足して食い終えた。あ、ワルテルは満足ではないな。すまん。
ホメオパシー治療を受けている横浜のプレマ動物ナチュラルケアクリニックに電話をかけた。フコイダンの溶液が切れかけているのと、マージは今後組織細胞治療というものを受けるのだが、その薬がドイツからいつ頃届きそうなのかを確認するためだ。
薬は今週末か来週早々に届く予定だという。ということは、今週は東京には戻らなくていいということだ。治療が遅れるのはもどかしいが、マージのためにはその方がいいのかもしれない。フコイダンは宅配便で送ってもらうことになった。
電話の後は、わたしの足元で船を漕いでいるマージの頭上で、イネイト治療のため、特殊なチップが入ったクリスタルのペンダントを振り回す。チップから出る電磁波が脳幹を刺激して、身体の不具合を治し、免疫力を高める治療だ。
マージは一瞬顔をあげたが、またすぐに眠りに引き込まれていった。わたしは腕が疲れて動かなくなるまでペンダントを回し続けた。
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| 眠るマージの頭上でイネイト治療用のペンダントを回す。 |
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なにも考えずに半袖のTシャツ一枚で犬たちと外に出た。思わず顫える。涼しいというよりは寒い。昨日の昼間との温度差は10度以上あるだろう。わたしは剥き出しの腕をさすったが、犬たちには絶好のコンディションだ。ワルテルは狂ったように駆け回る。マージもてってけてってけ歩きながら、地面や木の幹の匂いを忙しなく嗅いでいる。
二匹の注意を惹かないようにこっそり遠ざかり、20メートルほど離れたところで呼んだ。
「マージ、ワルテル、カム!」
二匹は顔をあげ、わたしがそばにいないことに気づいた。ワルテルがすっ飛んでくる。その後から、マージが必死で駆けてくる。走ってくる。先に辿り着いたワルテルと一緒になってマージを待つ。マージはしゃがんだわたしの胸元に突っこんできた。それを受け止める。昔は跳ね飛ばされたものだが、今はしっかりと受け止められる。一抹の寂しさと大いなる喜びに胸がざわめいた。
「いいぞ。ちゃんと走れるな、マージ」
マージを抱きしめながら胸を撫でてやる。マージは誇らしげに胸を張った。
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| マージが躍動する。若返っている。 |
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犬たちの朝ご飯用にスープを造った。白舞茸、トマト、セロリ、牛蒡、赤パプリカ、煮干しをことことと煮る。煮干しの匂いにマージが目覚め、涎を垂らしはじめる。その真摯さに負けて、煮干しを数匹食わせてやると、ぼくもぼくもとワルテルがやって来た。ワルテルは夜の散歩でウンチをしなかった。大丈夫だろうと勝手に決めて、少しだけ食わせてやる。腹一杯食いたいだろうが。
長期滞在になるし、残念ながら借りた別荘ではスカパー!が見られないので、家にあるDVDを手当たり次第に持ってきた。民放地上波の番組は、わたしには観るに耐えられない。未見のものは連れあいと一緒に見るつもりなので、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』をプレステ2にセットする。
赤ワインとラフロイグ、葉巻はPartagas Short CSにVegas Robaina Famoso.
映画の筋はほとんど忘れていた。吸血鬼が現れてマージを不死にしてくれればいいのにとくだらないことを考えながら、最後まで観た。
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| 留守番の時、ワルテルはこうやって外を見張っている。 |
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