軽井沢日記
-
7月21日 軽井沢 7日目

 ワルテルの吠える声で目が覚める。罵詈雑言をワルテルに投げつけるが吠え声はやまない。なんだろうと思って居間に出てみると、ワルテルはカーテンの向こうに頭を突っこんで、ベランダの向こうに吠えている。
 カーテンを開けると、女性がミニチュア・ダックスを敷地内で散歩させていた。
「おまえなあ、タマ抜くぞ、こら」
 ワルテルの去勢は目下、最大の懸案事項だ。わたしは去勢するつもりでいるのだが、連れあいが難色を示している。
 眠い目をこすりながら、煙草を吸おうとソファに向かうと、ソファカバーの上にプラスティック片が散らばっているのに気がついた。わたしの爪切りが無惨に噛み砕かれている。ワルテルだ。どこかから爪切りを見つけてくわえてきて、あまつさえソファの上の乗っかって噛み砕いたのだ。
 昨日の夕方と夜の散歩が短めだったので、かなり早くから起きだして、いたずらできるものを探し回っていたのだろう。
 わたしは頭を抱えた。現行犯で見つけたのでなければ、叱っても意味はない。犬はなぜ叱られたのかわからず、萎縮するだけだ。
「頼むぜ、ワルテル−−」
 わたしの気持ちも知らず、ワルテルは食事と散歩の期待に胸と身体を弾ませているだけだった。
 いつもと同じようにスープをかけた二〇穀米入りご飯にラムの挽肉を混ぜ、しその葉油とヨーグルトを混ぜ込んだご飯を与える。わたしは桑の実ジャムを入れたシリアルだ。わたしがスプーンでシリアルを掬っているすぐそばで、ワルテルがウンチをした。緩い便ではなく、こってりと太い便は歓迎だが、なにもおれが食っている時に・・・泣きながら便を処理した。
 陽射しが目映い。昨日とは違って、今日は気温が上がりそうだ。ということは、今朝の遊び場はスポーツパーク軽井沢のドッグランだ。
「もっと暑くなったら、北軽井沢まで行ってみような」
 二匹にそう声をかけ、外に出る。玄関を出るとすぐそこが狭いテラスになっていて、3段の階段がある。いつもはわたしがマージを抱きかかえて降りるのだが、今日は「ステイ」と声をかけるより先に、マージが階段から飛び降りた。
 −−!!
 マージは着地に失敗し、脇腹から地面に転がった。慌てて階段を駆けおり、マージを起こしてやる。
「大丈夫か、マージ?」
 マージは転んだことに驚いているようだったが、痛がる様子も見せず、尻尾を振った。
「外に出る時はステイしなきゃだめだぞ」
 マージの身体に触れ、怪我をしていないかどうか確かめた。軽井沢の環境で元気になるのはいいのだが、自分の体力を超えた動きをしようとするのは困りものだ。飼い主のわたしが充分に気をつけてやらねばならない。
 向かいの貸別荘で、ミニチュア・ダックスが窓際からマージに吠えてくる。おしっこをしているマージをその場に残して、ワルテルを外に出すと、吠え声が一層やかましくなる。ワルテルは吠え返したが、わたしが駐車場に足を向けるとそんな場合ではなかったというように吠えるのをやめて足早に歩き出した。
 例によって、スポーツパークのドッグランはわたしたちの貸し切りだった。日の当たる芝生の部分はすでに立っているのも辛いほど暑くなっているが、木の枝に覆われた木陰の部分はひんやりと涼しい。マージの体調を気遣いながら、ゆっくりのんびり歩き回る。リードを外してもらったワルテルは弾丸のようにすっ飛んでいって気ままに遊んでいる。
 そのワルテルが中腰になった。またうんちか・・・ワルテルは少しゆるめのウンチをまたひりだしていた。腸の具合が悪いのか、それとも外にいるからと無理矢理ひりだしたのか。わたしは後者だと思っているのだが、こればかりはわからない。
「このまんまじゃ、いつまで経ってもワクチン打てないだろう」
 わたしの嘆きも、ワルテルの耳には届かない。地面に落ちた枝をくわえてきてわたしの足元に置く。投げろと訴えているのだ。枝を低く放るとワルテルは追いかけていく。高く放ると、目標を見失って、ワルテルは狼狽する。
「阿呆め」
 といいながら、わたしは笑い、枝を放り続ける。ワルテルはわたしが投げた枝に追いついてくわえるが、持ち帰ってはこない。まだ、そこまでは教えていないのだ。
「持って来いよ」
 わたしはその度にワルテルのいる場所まで移動し、枝を拾い、また放る。
 枝を追って走るワルテルをマージがじっと見つめている。自分も追いかけたいのだが、ワルテルには勝てないということがわかっているようだった。
 わたしはマージの傍らにしゃがみ、痩せて骨張った身体を抱きしめる。
「おまえはいいんだよ。あんなことしなくても、充分に楽しいだろう?」
 ワルテルが自分も撫でてくれとやって来た。マージはワルテルの身体の匂いを嗅いだ。若々しい体臭や息づかいを懐かしがっているように見えた。
 
あ、暑い・・・。
あ、暑い・・・。
-
この先には進みたくないわ。
この先には進みたくないわ。
-
マ、マージが変だよ!
マ、マージが変だよ!
-
失礼!
失礼!
-
走り疲れて木の陰で一休み。虫に食われまくり。
走り疲れて木の陰で一休み。虫に食われまくり。
-


     
* * *

 冷蔵庫に転がっていたソーセージを焼き、キャベツの浅漬け、野沢菜昆布という漬け物でご飯を一膳食べる。
 食後は仕事だ。尻に火がついた状態で仕事に没頭していると時間の経過が曖昧になっていく。そろそろ切り上げ時かと気づくのは、爆睡していた犬たちが起きだして、落ちつきなくわたしの周りをうろうろするからだ。犬たちの体内時計の正確さにはいつも驚かされる。
 午後4時に仕事を切り上げ、犬たちと外に出る。マージももう、階段を飛び降りようとはしない。今朝の事故で身に染みたようだ。また、向かいの別荘のダックスが激しく吠え立ててくる。敷地内をぐるぐる歩いていると、そのダックスが飼い主と一緒に外に出てきた。マージとワルテルに吠え立てるが、家の中にいた時ほどの勢いはない。内弁慶の犬なのだ。
 マージが匂いを嗅ぐ挨拶をしにいくとダックスは吠えるのをやめた。どうやら牡のようだ。マージはすぐにダックスへの興味を失い離れていったが、ワルテルは興味津々。近づいていくとダックスが逃げる。おかしな追いかけっこがはじまって、わたしは微笑んだ。
 ワルテルはダックスと遊びたくてしょうがないのだが、ダックスの飼い主が怖くてなかなか近づけない。ダックスもワルテルに興味はあるのだが、その巨体にたじろいで逃げ回り、飼い主の背後に隠れてしまう。
 ぶきっちょな犬同士の交流を楽しんでいると、マージがわたしの太股を鼻先で突っついた。つまらないから歩こうと催促している。
「そうだな、マージ、歩こうか」
 ダックスとにらめっこをしているワルテルをその場に残して、わたしとマージは歩き出した。しばらくすると、群れからはぐれたことをしったワルテルが必死の形相で駆けてきた。
 犬は面白い。
 散歩を終え、土で汚れた犬たちの足をふきんで拭いていると、連れあいが帰ってきた。叔母と妹を引き連れている。犬たちが狂乱の出迎えをはじめた。尻尾を−−いや、腰ごと尻尾を振り、回転し、無闇に駆け、吠える。
 ひとりと二匹だけの生活は、これで一旦、終わりを告げた。

* * *

狂乱の出迎え。カメラが追いつかない。ワルテルの腰に注目!
狂乱の出迎え。カメラが追いつかない。ワルテルの腰に注目!
 ケーナインヘルスと馬肉の晩飯を犬たちに与えると、人間組は食事に出かけた。洋食を食べたいという叔母と義妹のリクエストに応え、中軽井沢の『メリメロ』というレストランを予約しておいたのだ。お伽話に出てくるような小さな店の庭先にテーブルが3つ、用意してある。それを見た連れあいの目が光った。
「外で食べたいな」
「虫が来るぞ」
 東京育ちの連れあいは虫に対する免疫がない。軽井沢の唯一の欠点は、虫がわらわらといることだと思っている。
「それは嫌だな・・・」
 迷っている彼女に、若い女の店員がこう告げた。
「虫が来ることは来ますけど、そんなに酷くありませんよ」
「じゃあ、外で食べます」
 連れあいは即答し、わたしは明後日の方角を向いて苦笑した。現地の人間のいう「そんなに」が、東京人にとっての「どっさり」と同義だということに、連れあいは気づいていないのだ。
 とにもかくにも、宴ははじまった。4人とも頼んだのはプリフィクスのコース。前菜とメインをメニューの中からチョイスし、それにパン、デザート、コーヒーがついてくる。
 わたしが頼んだのはフォワ・グラの炭火焼きと牛ロースのカツレツだ。絶賛とまではいわないが、そこそこの味に満足する。叔母と義妹はあまり酒を飲まないのだが、赤白のワインをそれぞれ一本頼んだ。飲み切れなければ持って帰るつもりだった。
 食事をはじめたころは、空はまだ明るかった。しかし、次第に闇が辺りを覆い始めると、我々のテーブルのすぐ横に照明用の明かりが灯った。途端に、虫が群がってくる。食事と酒に酔い、かしましく話していた連れあいが悲鳴をあげる。
 なにごとも経験が大事だ。虫が嫌でなおかつ外で食事を楽しみたいなら春か秋に来るべきだということを、彼女もようやく悟っただろう。
 虫が来ては悲鳴をあげ、虫が去っては食事に戻るということを繰り返しながら、宴は9時で終了した。
 車に乗りこむと、後部座席の連れあいが強烈な悲鳴をあげた。義妹の背中に虫がくっついているというのだ。車をバックさせようとしていた義妹が外に飛び出した。
 わたしは腹を抱えて笑った。

* * *

 連れあいがいるので、夜は二匹一緒ではなく、別々に散歩に連れだした。マージと貸別荘地の敷地内をのんびりと歩き、ワルテルとは敷地の外に出て、早足で延々と歩いた。二匹とも満足そうだった。
 持ち帰った白ワインを飲んでいると、猛烈な睡魔に襲われた。叔母と義妹はすでに床についている。わたしは連れあいを居間に残してベッドに潜り込んだ。
-
-



||   top   ||