軽井沢日記
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7月23日 軽井沢 9日目

 久しぶりに目覚ましの音で目が覚めた。まとわりつく犬たちに朝の挨拶をする。叔母と義妹はすでに起きていて、ニュースを見ていた。エジプトでテロがあったらしい。アメリカが背負ったツケに、全世界が翻弄されている。テロを防ぐには全世界がアメリカにそっぽを向くか、鎖国政策を取る以外ないだろう。どちらも非現実的だが。
 作り置きのスープを二〇穀米入りご飯にかけ、人間が食べたメカジキの余りをレンジでチンし、大根のみじん切り、ブルーベリー、ヨーグルト、すりゴマ、しその実油を混ぜ込んで与える。
 わたしはシリアルに桑の実のジャム。
 すこし休んでから、犬たちと散歩に繰り出す。今日もスポーツパークだが、ドッグランはやめて、ドッグラン横の芝生が敷きつめられたグランドで遊ぶ。周囲の森はうっすらと霧に覆われて、上着がなければ肌寒い。しかし、犬たちと歩き、時に駆けていると、やがて汗ばんできた。
 マージが疲れてきたようなので、歩き回るのはやめ、テニスボールを放ってワルテルを走らせる。ワルテルは元気いっぱいだ。
 今日はワルテルのワクチン注射があるので、30分ほどで散歩を切り上げる。
 
スポーツパークにはパターゴルフのコースもある。
スポーツパークにはパターゴルフのコースもある。
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こらこら、あがっちゃいかん!
こらこら、あがっちゃいかん!
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時々、ワルテルはマージを気遣って一緒に歩く。
時々、ワルテルはマージを気遣って一緒に歩く。
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 マージを別荘に送り届け、ワルテルとわたしは旧軽井沢菊池動物病院へ。脇腹の傷を消毒し、薬を塗ってもらって、さらにワクチン注射。マージは注射を屁とも思っていないのでワルテルも同じだろうと思っていたが、注射針が刺さると「ひーん」と情けない声をあげた。
 チキン野郎め。
「痛かったはずないだろう。単に怖かったんだな、おまえ」
 呆れて告げると、ワルテルは口を開けて尻尾を振った。可愛いものだ。
 ワクチン注射の後は多少具合が悪くなったりすることがありますが、気にしなくても大丈夫、今日の運動は控えめにという先生の言葉を聞いて、帰途につく。
 別荘に戻り、この日記を書いていると、ワルテルがえづきだした。新聞紙を用意する間もなく、朝食をすべて吐き出す。
 注射の影響か、それとも食後の休憩が短すぎたか・・・いずれにせよ、吐いた後のワルテルはけろっとしていた。大変なのは後始末をする人間だけだ。

* * *

 蕎麦が食べたいという義妹のリクエストに応じて、旧軽銀座の「弦楽」という蕎麦屋に行く。野沢菜と三色豆腐の盛り合わせ、鞍かけ豆にざる蕎麦を二枚頼む。味は普通。
 別荘に戻る。ワルテルは吐いてはいず、いつもどおり、思いきり元気に出迎えてくれる。
 仕事をする前にネットを巡回していると、骨髄腫を患っていた広島のバーニーズ、バロンの訃報を知る。具合が悪くなってから2週間ほどだろうか。あまりに早い死だ。60キロ近い体重のバロンを50歳を過ぎた夫婦が一生懸命看病していた。マージのことも親身になって心配してもらったことがあり、看病の助けになればと、マージに万一のことがあったらと買っておいた簡易担架にもなるマットを送ったのは軽井沢に来る前日のことだった。
 享年、5歳。
 若すぎる。バーニーズは短命な犬種だが、それでも若すぎる。
 マージとワルテルを抱きしめて、バロンのために冥福を祈る。十一歳まで飽きることなくわたしのそばにいてくれるマージに感謝する。ワルテルに告げる。
「おまえも長生きしてくれよ」

* * *

 ネットを徘徊する犬好きの間に語り継がれている「虹の橋」という短い短い物語がある。元々はアメリカン・インディアンの間に伝わっていたお話だそうだ。詳細は覚えていないが、書いてみよう。細部に間違いがあるかもしれないが・・・。

* * *

 死んだ犬たちは天国の手前にある「虹の橋」のたもとに行く。そこでは年老いた犬も、病気や怪我で苦しんでいた犬も、元気を取り戻し、他の犬たちと遊んで楽しく暮らす。だが、ときおり、犬たちは物悲しそうな目で遠くを見つめる。どれだけ楽しくても、彼らの心には穴があいているのだ。なぜなら、この世で一番好きだったあの人がそばにいくれないからだ。
 だが、ある時、一匹の犬が遊びの輪から放れ、遠くの一点を見つめる。犬は鼻をうごめかせ、必死になにかの匂いを嗅ぎ取り、やがて激しく、大きく尻尾を振りはじめる。そして、一目散に駆け出していく。
 世界で一番好きだったその人が、虹の橋のたもとにやって来たのだ。
 飼い主と犬は虹の橋のたもとで再会を喜び、お互いを慈しみ、一緒に虹の橋を渡って天国に向かっていく・・・。

* * *

 ご存知のように、わたしはこうしたお伽話を気にかけたりはしない。死は死として厳然と存在するだけだ。肉体の死と共に魂は消滅する。天国は存在しない。霊などいない。輪廻転生などありはしない。我々「自然法則」という堅牢なシステムに支配されている。その冷たい手から逃れることはできない。我々はエネルギー体であり、エネルギーを使い果たせば単に消滅する。
 だからこそ、我々は愛するものの死を嘆き悲しむのだ。それが永遠に失われてしまったことを知っているから・・・
 それでも、バロンのお母さんのために、この話を思い出した。
 バロン母さん、虹の橋のたもとで、きっと元気なバロンに再会できますよ。

* * *

 夕方前に、賑やかな女性陣は東京に帰っていった。またもやひとりと二匹の生活に逆戻りだ。ワルテルの体調に変化はない。吐いて胃の中が空っぽになったせいか、しきりに食い物をねだりにくる。もちろん、その愛くるしさに負けたりはしない。犬の飼い主にはいつだって責任がついてまわるのだ。そのことを自覚していない飼い主が、ことに日本に多いのは嘆かわしいことだが。
 貸別荘地は深い霧に包まれていた。犬たちと外に出る。ワルテルは勝手に走り回ったりしないようにリードを付けている。空気は湿り、冷えていた。昨日は夏の宴を謳歌していた虫たちもどこかの暗がりに潜んでぶるぶると顫えている。
「マージ、今日はワルテルの調子が悪いから、散歩、短めだぞ。怒るなよ」
 霧をかき分けて、マージはわたしとワルテルの後をついてくる。表情を緩め、冷たく湿った空気や土の感触を楽しみながら歩いている。ワルテルも、リードを付けている時はわたしの左横を歩くという原則を守っている。不満はあるはずだが、決してマージのように自由に歩きたいと駄々を捏ねることはない。わたしの望むことを懸命に理解しようとしている。
 二匹ともいい犬だ。
 
霧にけぶる別荘地の森。
霧にけぶる別荘地の森。
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凄まじい霧だ。
凄まじい霧だ。
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霧の中でたたずむ魔犬1号。
霧の中でたたずむ魔犬1号。
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 また映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」のことを考えた。わたしも犬たちも吸血鬼になって、未来永劫、別れることなく暮らしていくのだ。
 霧とバロンのせいで、わたしは感傷的になっている。
 永遠などはない。悠久の宇宙のたおやかな時間の流れの中で、我々は瞬間的に明滅するだけの存在だ。吸血鬼がもし存在したとしても、太陽が赤色矮星化し、地球が飲みこまれたら生き残れない。そういうことなのだ。
 自覚せよ、自覚せよ。自覚して、一瞬の生を存分に味わえ。
 散歩から戻ると、東京で大きな地震があったとテレビが伝えていた。
 連れあいに電話をかけると、まだ所沢だという。東京のマンションになにか被害があったら教えてくれと告げて、電話を切った。
 犬たちの夕食の支度を終えると、自分のための料理をする気力が完全に失せていることに気づいた。
 別荘の自転車を借り、霧の中を走り、セブンイレブンで弁当を買ってくる。外食しても良かったのだが、今日は犬たちと一緒にいたかった。
 犬たちの食事はケーナインヘルスにラムの挽肉。オリーブオイルを垂らし、天彌という整腸用のサプリを振りかける。
 食後、仕事を続けていると連れあいから電話があった。廊下に積み上げていた本の山が崩れたぐらいで、特に被害はないという。良かった。テレビの上に沖縄で買ってきたシーサーがあるのだが、それが落ちて壊れたのではないかと心配だったのだ。

* * *

 9時に仕事を切り上げ、犬たちと外に出た。霧は晴れ、夕方よりも気温が上がっているような気がする。明日は暑くなるのだろうか。暑さと寒さが交互に押し寄せてきて、犬たちの体調が崩れないかが心配だ。
 ワルテルのこともあるので、早めに散歩を切り上げる。犬たちの呼吸が落ち着いたところで水とおやつを与え、テレビのチャンネルを回してみたが、見たい番組はひとつもない。白ワインを用意し、葉巻に火を付け、プレステ2に「ロマンシング・サガ ミンストレル・ソング」というゲームソフトをセットする。もうずいぶん前に別の機械で発売されたもののリメイクだが、システムがすっかり変わっていて戸惑った。2時間ほどゲームで遊んで、眠る支度をした。
 散歩は短かったのに、ワルテルはすっかり眠りこけている。
 床に就き明かりを消す。しばらくすると、がしがしと床を蹴るような音がする。ワルテルが脇腹の傷口を掻いているのかと思って明かりを点けたら、マージが上半身だけを連れあいのベッドに乗せて、両足で床を蹴っていた。登りたいのに登れないのだ。ベッドにはあげたくないのだが、その必死な姿を見ていると切なくなってきて、マージをベッドに乗せてやった。
 
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