軽井沢日記
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7月28日 軽井沢 14日目

 目覚ましが鳴って、犬たちがわたしのベッドに突進してきた。
「マージ、いくらなんでも態度が違いすぎるだろう」
 東京での怠惰なマージと、軽井沢での活発なマージはまるで別の犬のようだ。
 空は見事に晴れ上がっている。だが、空気は乾き、冷えていた。今の内に−−ご飯より先に散歩に行く。二日ぶりのスポーツパークだ。ドッグランに入る前に、隣のグラウンドに行く。マージは草の匂いを嗅ぎ、草を食み、ワルテルはロケットのように駆け回る。陽射しは強烈だが、暑くはない。マージは走り、立ち止まり、草を食み、また走る。10分ほどそうやって遊んでからマージの身体に触れてみると、黒い毛がかなりの熱を持っていた。空気は爽やかでも、直射日光は容赦なくマージたちの黒い毛を焙っていく。
 熱射病が怖いので、グラウンドからドッグランに移った。木陰に入れば、そこはまた快適な遊び場だ。わたしは気がつけばマージを見つめている。東京と軽井沢での表情の落差に胸を打たれている。
 そんなに楽しいか、マージ。そんなにここが好きか。
 立ち止まったままのわたしの足元にワルテルが寄ってきた。どうしたの? もう遊ばないの? 見上げる目がそう問いかけている。マージがよたよたと駆けてくる。脚はもつれそうなのに、それでも気持ちが身体を引っ張っているのだ。
「マージ、もう少し遊べそうだな」
 わたしはワルテルに語りかけた。ワルテルはマージの所に駆けていって、叱られた。  
抜けるような青空の下、気持ち良くしてます。
抜けるような青空の下、気持ち良くしてます。
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なにか食べ物あるの? 草がうまいのよ。
なにか食べ物あるの? 草がうまいのよ。
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どうしても顔がほころんでしまうな。
どうしても顔がほころんでしまうな。
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木々も日光の氾濫に喜びの声をあげている。
木々も日光の氾濫に喜びの声をあげている。


* * *

 別荘に戻る道すがら、旧軽銀座のフランスベーカリーに立ち寄った。ピロシキとハンバーグロール、それにバゲットを買う。バゲットは焼きたてで、なんともいえない香りを漂わせていた。向かいの浅野屋で明太子の牛蒡サラダとアンチョビバターを買う。
 犬たちの朝ご飯を作り−−ケーナインヘルスとサーモンの煮込み−−冷めるのを待つ間、人間たちが朝食を取る。ピロシキもハンバーグロールも、牛蒡サラダも美味しい。腹ぺこの犬たちがまつわりついて離れない。
 冷めたご飯を与えると、二匹は涎を垂らしながら食い始めた。
 食後、昼過ぎまで仕事をして、連れあいと共に雲場池まで散歩に行く。池の畔のレストラン、雲場亭でキノコのスパゲッティ。味はまあまあだが、パスタを茹ですぎ。ここの評判がいいのはロケーションのせいだろうなあ。
 昼食後、ツルヤで買い出しをして戻ってくると、すでに午後3時。仕事の時間がほとんどない。参ったな。    

* * *

 うろうろする犬たちをなだめすかし、5時近くまで仕事をする。パソコンの電源を切ると、犬たちが喜びのダンスを踊り始める。
「わかった、わかった」
 急いで犬たちを外に出す。午前中は爽やかだったが、いつの間にか湿度が増して、じめじめしていた。マージもワルテルも速やかに大小の用を足し、てんでばらばらに探検をはじめた。日なたで立っていると、それだけで首筋にねっとりとした汗が滲んでくる。マージにも朝の元気さはない。ワルテルだけが、蒸し暑さなどどこ吹く風だ。
 20分ほどで散歩を切り上げ、別荘に戻った。それほど激しく動いたわけでもないのに、マージの息が荒い。脚を拭きおえると、マージは久しぶりに水をがぶ飲みした。
 ケーナインヘルスと羊の心臓の晩ご飯を用意する。赤身の肉より内臓の時の方が犬たちの反応は強い。激烈だといってもいい。調理中のわたしの足元にまとわりつき、あちこちに涎を垂らす。
「まだだよ。食べるのは冷めてからだ。わかってるくせに催促するなよ」
 犬たちのご飯の支度を済ませると、人間用の調理に入る。土用の丑の日なんだから鰻が食べたいという連れあいのリクエストに応えて、ツルヤで鰻を買ってある。まず、キュウリとワカメの酢の物を作ろうと思ったのだが、キュウリがだめになっていた。買い出しに行く気力がないので、今日、犬のために買ってきたピーマンで代用することにする。しかし、でかくて固いピーマンだ。東京のスーパーで売っているようなものなら、湯がいたりしなくても三杯酢に漬けておけばしんなりしてくるのだが、まったくその様子を見せない。あおさのみそ汁を作り終えて、あとはご飯が炊けるのを待って鰻をレンジでチンするだけである。
 犬たちに晩ご飯を与える。いつもならワルテルの方が先に食べ終えるのだが、なんと、心臓の魔力か、マージがあっという間に食べ終え、返す刀でまだ食べ続けているワルテルを威嚇してどかせ、ワルテルのご飯を貪りはじめた。
「マージ!!」  雷を落とすと、マージは部屋の隅に逃げていく。ヘルニアでうまく歩けない犬とは思えない素早さだ。口の中に入れた心臓の切り身は決して放さない。上目遣いでわたしの様子を伺いながら、噛み、飲み下す。
「マージはひでえなあ。ワルテル、ごめんな。おれに免じてゆるしてくれ」
 ワルテルは二度と取られまいと、さっきより勢いを増してご飯を食べ終えた。マージは逃げ込んだ部屋の隅で横になった。わたしの機嫌が直るまで、そこでほとぼりを冷ますつもりなのだ。まったくもう。
 炊きたてのご飯に鰻を載せ、タレをまわしかける。これもツルヤで買った京山椒をかけて食すと、これがまたうまい。下手な鰻屋顔負けの味だ。ピーマンは相変わらず固かったが、しかしピーマン自体の味は美味で酢の物も成功だ。わたしと連れあいは満足して、箸を置いた。
 日本茶と葉巻を堪能した後、わたしひとりで外に出る。貸し自転車を借りて、近所の本屋兼レンタルビデオやで会員になった。『リクルート』というスパイ物と『血と骨』を借りてくる。10枚たまれば一本ただで借りられるというサービス券を2枚もらった。一週間程度しか滞在しない旅行者には意味のないもので、だからこそ気前よくくれるのだろうが、大いに活用させてもらおう。  
いたずらを連れあいに見つけられてお仕置きを受けている最中です。
いたずらを連れあいに見つけられてお仕置きを受けている最中です。


* * *

 9時すぎに外に出た。ワルテルは相変わらずだが、マージは身体が重そうだ。後ろ脚の関節が曲がらず、突っ張ったような歩き方をしている。
 マージに気をつけながら、ゆっくりのんびり歩く。
「マージ、辛い時は無理しなくていいんだからな。慌てなくても、まだ2ヶ月はここにいるんだから」
 マージはわたしの言葉を知ってか知らずか、折れた木の枝の匂いを嗅ぎ続けている。わたしとの距離が離れると顔をあげて、えっちらおっちら歩いてくる。そばに来るのを待っていると、マージの腰がすとんと落ちた。マージは地面に腹這いになってきょとんとした顔をしている。なにが起こったのか、理解できていない。
 わたしはマージに駆け寄り、お腹に腕をまわして立たせてやった。手を放すと、マージは何事もなかったかのように歩き出す。
 軽井沢に来てマージの心は若返っている。だが、肉体はまだ衰えたままだ。
「もう帰ろうか、マージ」
 わたしは敷地内をうろついているワルテルを呼び戻し、マージを抱いて別荘に戻った。苦く暗い思いが胸の奥で渦巻いている。だが、その感情をマージに悟られてはならない。マージはわたしの腕の中で静かにしていた。  

* * *

 水と鶏肉のガムを与えると、犬たちは速やかな眠りに就いた。マージの身体にあれ以上の異変はない。わたしが犬たちのスープを作っている間、連れあいは寝ているマージの身体を撫で続けていた。
 スープが完成したら、後はすることがない。我々は『リクルート』のDVDを見はじめた。映画を見ながら、わたしはマージの頭上でイネイト治療用のペンダントを回し続けた。


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