軽井沢日記
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8月3日 軽井沢 20日目

 夢うつつの中で寝返りを打った−−そう思った途端、顔に犬たちの熱い息が襲いかかってきた。わたしが起きてくるのを今か今かと待ち構えていたのだろう。唸りながら目覚まし時計に手を伸ばす。7時10分。なんとも微妙な時間だ。
 犬たちに不機嫌だということを知らせるために顔をしかめながら起きた。だが、犬たちは怯むこともない。カーテンを開けると、別荘地はしっぽりと濡れそぼっていた。雨は上がり、雲の隙間から日光が差し込んでいる。
 このままではまた暑くなりそうだ。大急ぎで着替え、犬たちを外に出した。
 スポーツパークのドッグランは一晩降り続けた雨のせいで地面がぬかるんでいた。グラウンドには陽光が降り注ぎはじめ、その下に立っているとじわじわと暑さが押し寄せてくる。結局、グラウンドの隅、植えられた木が陰を作ってくれている狭い一画で犬たちと遊んだ。太陽が雲に隠れるとグラウンドの中央まで進んでみたが、太陽が顔を出すやいなや、また木陰に戻る。犬たちにはクールコートを着せているが、覆われていない頭部はすぐに暑くなる。
 毎日同じところに来ているのに、マージは飽きもせず草を食み、ワルテルは駆け回っている。だが、それも30分で終了だ。あまりの暑さに、ワルテルが草の上に身体を伏せ、マージもお座りをして動かなくなった。
「暑いよなあ。だけど、マージ、30分も遊べたぞ。東京だと5分でギブアップするだろう?」
 わたしの言葉にも、マージは口を開けて忙しない呼吸を繰り返すだけだった。相当にくたびれている。だが、そうなるまで動き続けたということだ。軽井沢の環境が与えてくれる活力を、マージは最後の一滴まで絞り尽くして味わっている。
 別荘に戻り、犬たちの呼吸が落ち着くのを待って、ご飯の支度をする。
 昨日の夜作ったスープ−−煮干し、トマト、椎茸、ピーマン、キャベツ−−に十三穀米入りご飯。ラムの挽肉。ヨーグルト。オリーブオイル。すりゴマ。各種サプリ。
 わたしはまたシリアルだ。連れあいが来るのが待ち遠しい。
 10時にまたマージを病院に連れていき、昼は炒飯を作って食べた。犬たちは熟睡して、起きてくる気配もない。

* * *

 夕方。マージはまた駐車場に直行する。それを見越して、すでにクールコートを着せてある。わたしの完敗だ。
 スポーツパークに行き、グラウンドで遊ばせる。マージは例によって草を食むことに夢中だが、突然、よろめきながら歩き出した。
「どうした、マージ?」
 マージのそばに駆け寄ると、マージは黄色い胃液を吐き出した。すわ、一大事かとマージの身体をさすったが、吐き終えたマージは何事もなかったかのように、また草を食みはじめる。
 昔、獣医に犬が草を食べるのは吐くためだと聞いたことがある。マージが吐いたのはそれなのだろうか? 先端が尖った草の刺激で吐いただけなのだろうか? それとも・・・。
 この年の、病気を抱えた犬の飼い主は、いつだって不安に晒される。
 しかし、わたしの不安をよそに、マージは牛のように草を食み続けている。
なにかを狙っている。視線の先では蝶々が飛んでいる。
なにかを狙っている。視線の先では蝶々が飛んでいる。
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一日に2回もここに来れて嬉しいわあ。
一日に2回もここに来れて嬉しいわあ。
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ホント、気持ちいいねえ。
ホント、気持ちいいねえ。
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かすみの向こうの離山。
かすみの向こうの離山。
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ファインダーを覗くわたしの心も穏やかになっていく。
ファインダーを覗くわたしの心も穏やかになっていく。
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犬と牛のいる風景(笑)。
犬と牛のいる風景(笑)。
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接近したツーショットの写真を撮るのは、この連中の場合至難の業。
接近したツーショットの写真を撮るのは、この連中の場合至難の業。


* * *

 ケーナインヘルスを煮て、馬肉を混ぜ込み、冷めるのを待つ間にシャワーを浴びた。マージの様子をそれとなく伺ってみたが、具合の悪そうな様子は見受けられない。吐いたことに重大な意味はないのかもしれない。
 犬たちに食事を与え、またしばらく様子を見、なにもないことを確認して別荘を出た。
 今夜は藤田宜永さんと飯を食う予定になっている。すでに藤田さんが乗ったタクシーが別荘地の前に停まっていた。軽井沢では有名なイタリアンの「トラットリア・プリモ」に向かう。
 食事を摂り、ワインを飲みながら、軽井沢についてのためになる情報をたくさん聞かせてもらう。暮らすのに便利なのは、なんといったって中軽井沢だ−−藤田さんは自信を持って断言するのだ。
 それはそうだろう。旧軽井沢は要するに観光地だ。お洒落なレストランやカフェ、お土産屋は腐るほどあるが、生活に必要な店舗はほとんどない。だが、中軽井沢には町役場をはじめ、病院、スーパー、電気屋となんでも揃っている。軽井沢を軽井沢たらしめている雰囲気は、しかし、ここに長くいればいるほど日常の中に溶けこんで、特別なものではなくなるのだ。
 プリモで10時まで粘って、その後は万平ホテルのバーに移動した。初めて訪れたが、いい感じにくたびれていて、確かに歴史を感じさせるホテル、バーだ。
 作家仲間にまつわる馬鹿話や銀座のクラブ活動についてのろくでもない話をしながら、時を過ごす。わたしが飲んだのは、軽井沢ウィスキーの12年と15年をそれぞれストレートで一杯ずつ。うーん、旨い。
 藤田さんはまだ飲み足りない様子だったが、犬の散歩があるので、申し訳なく思いつつ、帰ろうと促す。
 途中で降ろしてもらい、急ぎ足で別荘に戻った。犬たちはわたしの帰りを首を長くして待ちわびているはずだ。
「ただいま。遅くなってごめんな」
 犬たちが歓迎のダンスを踊る。彼らを撫でようとして、わたしはその匂いに気づいた。腐ったぬか漬けのような匂いだ。目を凝らすと、部屋のあちこちに下痢便が落ちている。
「マージ?」
 夕方、胃液を吐いていたマージの姿が脳裏をよぎった。マージにもワルテルにも、しかし、変わった様子はない。急いで犬たちを外に出し、繋いで、部屋に戻る。幸い、下痢便は滑り止めに強いたタイルカーペットの上だけに落ちている。別荘の床や備品は無事だ。汚れたタイルを剥がし、ごみ袋に詰め込み、すべての窓を開け放って換気した。汗をかきながら外に出て、とりあえず、マージたちに用を足させる。
 マージはおしっこをし、次いで、下痢便をした。半固形状の便だ。
「マージ、大丈夫か?」
 マージはたんにお腹を下しているだけで、辛そうではなかった。用を足し終えると、また駐車場に向かおうとする。そのマージの尻尾を掴み、上に引っ張ってお尻周りの毛を見てみる。
 液状のウンコに、マージの毛はまみれていた。
 わたしは溜息をつき、肚を括った。酔いはすっかり冷めている。
 マージたちを部屋に戻し、わたしはトランクス一丁の半裸になった。濡れタオルを何枚も用意し、マージの汚れたお尻周りを拭いた。拭いても、拭いても、タオルはすぐに黄色くなる。
「マージ、なんで下痢なんだよ? ワルテルは平気なんだぞ」
 半分泣きながら、わたしはマージに訴えた。マージはつまらなさそうな顔をしてわたしの声を聞いている。その表情はこう語っているのだ。
「ねえ、まだなの? わたし、早くおやつ食べたいんだけど」
 おやつなんかやれるわけがない。30分以上の時間をかけて、なんとかマージの汚れを拭きおえた時には、わたしの全身は汗にまみれていた。
 シャワーを再び浴び、おやつを寄こせと詰め寄ってくる犬たちをいなして、わたしはベッドに転がり込んだ。
 


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