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9月9日 軽井沢 57日目
寒い。思わず身震いして布団の中で身体を丸めた。自動車が水を巻きあげて走る音が聞こえてくる。カーテンを開けると空は雲に覆われ、小雨が降っていた。
「せっかく帰ってきたのに、また雨かよ」
嘆息しながらベッドを降りる。パジャマでは寒すぎるほどだった。急いで着替え、半袖ではなく長袖のシャツを着た。その上から上着を羽織って、やっと一息つく。
犬たちはこれぐらいの気温など屁でもない、いや、これでもまだ暑いぐらいだといわんばかりに息を荒げて、外に出してもらえるその瞬間を待ち構えている。
マージもワルテルも快便だった。車に乗り込み、スポーツパークに向かう。東京に戻る前もずっと雨だったので、本当に久しぶりだ。マージもワルテルも、グラウンドに出るなり草を食みはじめた。東京には食べる草がない(公園は別だが、除草剤が撒かれている可能性が高い)。2頭は草を食みながら、軽井沢に戻ってきたことを確認しているようでもあった。
「ワルテル!」
ぶんぶんボールを振り回しながらワルテルに声をかけた。ワルテルは草を食むのをやめ、わたしの方に猛然と駆けてくる。ワルテルの進行方向にぶんぶんボールを投げた。ワルテルはわたしの足元を駆け抜けていく。その後ろ姿を見ながら、わたしも実感する。
ああ、軽井沢に戻ってきたんだなあ。
気温が低いおかげでマージの体調もすこぶるよさそうだった。30分ほど遊んでスポーツパークを後にする。別荘を通りすぎて旧軽銀座へ。たまには気分を変えようということで、浅野屋でパンを買う。店長お勧めというポップが立ったソフトサラミサンド、それにカレーパン。8月にはこの時間でも観光客でごった返していたのだが、9月の旧軽銀座は静かなものだ。
別荘に戻り、犬たちのご飯の支度をする。今日から手作り食の再開だ。スープを作る時間がなかったので、ご飯に砂糖・塩不使用の野菜ジュースをかける。大葉のみじん切り、大根おろし、すりゴマ、馬肉の粗挽き肉、ヨーグルト、各種サプリ。お腹の調子を見るために、いつもより若干少なめにする。これで問題がなければ、晩ご飯の量を少し増やしてやればいい。
ワルテルにはご飯の代わりにドッグフード。後はマージと同じ。馬肉の量は少なめに。ドッグフードが切れたら、ワルテルにもマージと同じものを食べさせてやろう。
ソフトサラミサンドもカレーパンも美味。しかし、同じ揚げパンなら、わたしはやはりフランスベーカリーのピロシキだな。
食後はコーヒーを飲みながら、メールをチェックし、日記を書く。
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| 久しぶりのスポーツパークで早速草を食む。この時はマージは元気だった。 |
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| ワルテルも喜んで駆け回る。
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十一時にマージを菊池動物病院に連れていく。今日は二ヶ月ぶりにシャンプーをしてもらうのだ。そのついでに肺のレントゲンと内臓の超音波エコー検査をしてもらうことにして、マージを置いて病院を出た。マージは「え、なんで?」という顔をしていたが、ここで親心を出してしまってはマージは臭いままだ。マージだって自分が清潔でいることの方が好きなのだ。
車のエンジンをかけていると、院長先生の奥さんが外に出てきた。手にビニール袋を持っている。
「馳さん、これ、わたしたちが好きでいつも取り寄せてる豆腐なんですけど、是非食べて頂きたくて・・・これからお家に戻られますか?」
「あ、これから買い物に行くんですよ。マージを迎えに来る時にいただきます。それでいいですか?」
「じゃ、冷蔵庫に入れておきますね」
連れあいと一緒に久しぶりにツルヤに行って、数日分の食材を買い込んでおくつもりだったのだが、後から考えるとこれが大失敗だった。
ツルヤで買い物をすませ、総菜コーナーで買った寿司を昼飯にし、仕事を開始する。三時半に仕事を終え、連れあいとワルテルを車に乗せてスポーツパークに行く。しばしワルテルと遊び、パターゴルフのグリーンでパットの練習をするという連れあいを残して、マージを引き取るために病院に行った。
駐車場に車を停めている最中に、院長先生が外に出てきた。なにか良くないことが起こったのだと直観した。慌てて車を降りた。
「馳さんがお帰りになった後、マージちゃんがぐったりしてしまいまして。シャンプーも検査も中止しました」
ぐったり? 中止? ふたつの言葉が頭の中で渦を巻く。病院側はわたしに連絡を取りたかったらしいのだが、わたしが外出していると思いこみ、携帯電話の番号も教えていないので連絡が取れずに困っていたらしい。
マージは自力で立つことができず、しかし、苦しんだり痛がったりしている様子もないという。聴診器で診察しても異常は感じられない。意識ははっきりしているが、ただ、ぐったりしているのだ。とりあえず、全身ブラッシングと爪切りを施しておいたが、あとはケージの中で寝させている−−先生はそういった。
しかし、先生の言葉はわたしの耳を素通りした。マージのことが心配でしょうがなかった。マージに申し訳なくてしかたがなかった。すぐに家に戻ると一言告げておけば、もっと早くに迎えに来てやることができたのだ。
待合室で不安に苛まれながら待っていると、先生と助手に抱えられるようにしてマージがやって来た。いつもならわたしを見ると興奮し、喜びを露わにするのに、マージは尻尾を振るでもなく、すぐに床に伏せてしまった。
「マージ、大丈夫か?」
わたしが近寄って身体に触れても、マージの尻尾は固まったままだ。自分を置いていったわたしに怒っている。だが、それ以上に身体がいうことを利かないという印象が強かった。
「ぐったりして自分で立てないという以外に、目につく病状はありません。疲れているのかな・・・状態が悪くなったらすぐにご連絡ください。できるだけ対処しますから」
先生に感謝の言葉を告げながら、わたしはマージを抱きかかえた。車の後部座席にそっと横たえたが、マージは目を動かすだけで、身体はほとんど動かさない。その目がはっきりとした意志の光を湛えていることだけが救いだった。
「マージ、すぐにうちに帰るからな」
マージの匂いを嗅ごうとしているワルテルを叱りつけ、スポーツパークに戻る。パットの練習をしていた連れあいが笑顔を浮かべたが、わたしの表情を見て、その笑いが凍りついた。
「どうしたの?」
「マージ、動けない」
「なんで!?」
別荘に戻る車の中で経緯を説明した。本来なら連れあいの方が精神的に参ることの方が普通なのだが、わたしの表情がよほど青ざめていたのだろう、連れあいは気丈に振る舞い、わたしとマージを叱咤した。
「大丈夫よ。マージ、全然目が死んでないじゃない。あなたに置いていかれて怒ってるだけよ」
そうだと思いたい。だが、それだけだとも思えない。
駐車場に車を停め、マージを降ろした。マージはなんとか四肢を踏ん張って立った。
「歩けるか、マージ?」
わたしが促すと、マージは一歩だけ、歩いた。
「マージ、もう少し頑張れ」
もう一度促す。今度は2歩、歩いた。
「ほら、マージ、おいで」
マージは3歩、歩いた。そうやって10メートルほど歩かせたが、そこが限界だった。マージはどうにも動けなくなった。ワルテルを連れあいに任せ、わたしはマージを抱きかかえて別荘まで歩いた。前回、食欲をなくした時と、ほとんど同じだ。わたしは横浜のプレマの羽尾先生の言葉を思い出していた。マージがときおり左前脚の前腕部を執拗に舐める。これにはなんの意味があるのだろうと訊いたのだ。先生はマージの両脚の太さを調べ、触診し、こういった。
「特に左脚の筋肉だけが衰えてるということもないし、しこりやなにかがあるわけでもないですね。マージちゃん、年だから神経痛かなにかがあって、痺れるか何か、そういうことで気になって舐めるんじゃないのかな」
神経痛かなにか−−マージが時々歩けなくなることの理由はそれなのだろうか。ならばわたしは耐えられる。老化が理由なら、受け入れられる。
マージは玄関先で寝そべって、そのまま動かない。身体の下に敷いたシートごと引きずって、居間の中に移動させた。マージのそばに横たわり、そっと身体を抱きしめる。マージはされるがままになっている。相変わらず尻尾は動かない。
「ごめんな、マージ。すぐに迎えにいけなくて。心細かっただろう? ご飯、食べられるか?」
ご飯という言葉にもマージは反応を示さなかった。食べないだろうと思いつつ、晩ご飯の支度をする。
今日は馬肉の代わりに、マージの(ワルテルも)大好きな鶏のレバーをケーナインヘルスと一緒に煮込む。作る量はいつもの半分だ。ケーナインヘルスを充分に冷ましてから、寝たままのマージの口もとに食器を持っていく。マージは匂いを嗅いだが、すぐにそっぽを向いた。プロセスチーズを細かくちぎり、ご飯の中に混ぜ込んでみた。マージはまた匂いを嗅いだ。さっきよりは念入りに。しかし、またそっぽを向く。わたしは自分の掌にレバーとチーズを載せて、マージの口もとに近づけた。マージは食べた。
よし! もう一度、レバーとチーズを掌に載せた。どんな形でも食べてくれれば問題はない。だが、マージはそれ以上食べようとはしなかった。わたしは悄然とした。だが、無理矢理笑顔を浮かべる。自分のせいでわたしが落ち込んでいるとマージに思わせてはならない。
「そっか。今はまだ食べる気分じゃないな。後で食べような、マージ」
食器を片づけ、ワルテルに食事を与え、わたしは人間の晩ご飯の支度に入る。とにかく、身体を動かしていないと頭が勝手なことを考え始めて暴走してしまう。
わたしが食事を作っている間、連れあいがマージをなだめ、おやつを与えた。犬用のクッキー−−マージは食べた。もう一度、プロセスチーズ−−マージは食べた。ほっとする。
豆もやしのみそ汁に肉じゃが、それに菊池動物病院でもらった豆腐。旨いが、味は舌の上ですぐに消えていく。わたしの視線は絶えずマージに向いてしまう。マージは眠っている。死体のように、ぴくりとも動かずに眠っている。わたしがマージを見るたびに、連れあいがわたしを叱咤する。
「大丈夫だってば。ちゃんと自分のご飯食べなさい」
連れあいのいうとおりだ。わたしは茶碗に残った白米を口の中にかき込んだ。
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| 夕方のスポーツパークで。連れあいとワルテル。 |
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| さあ、マージを迎えに行こうか。
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| 車に乗せてもマージはぐったりしたまま。耳のリボンまで痛々しい。
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| 別荘に戻ってもこんな感じ。心底くたびれていた。
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頭上でイネイトのペンダントを回していると、マージが目覚め、顔をあげた。
「マージ、起きたか・・・ご飯食べるか?」
だめもとで聞いてみた。すると、マージの尻尾がかすかに左右に揺れた。わたしは喜びながら立ち上がる。
「よし、待ってろ。美味しいご飯だぞ、マージ」
ラップをかけていた食器を台所から持ってきてマージの口もとに持っていく。マージは口を大きく開け、牙を剥きだしてご飯に食いついた。
「食べた。食べたぞ」
雑誌を読んでいた連れあいに声をかける。連れあいは雑誌を閉じ、我々の方に移動してきた。ワルテルも一緒になって、なんとかマージのご飯を横取りしようと狙っている。
3分の1を残して、マージは食べなくなった。それでもいい。まったく食べないより、こっちの方がずっといい。
「よく食べたな、マージ。よし、後は寝ろ。たくさん寝て、体力取り戻せ」
マージの食べ残しをワルテルに与え、わたしはまたマージの横に寝そべった。マージはわたしの腕に顎を乗せ、尻尾を振った。わたしはマージを抱き寄せ、そのまま一緒に眠った。
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9時半に目覚めた。マージもわたしと一緒に目覚める。
「散歩に行けるか、マージ?」
マージはまた尻尾を振った。わたしが立ち上がるとよろめきながらなんとか腰をあげる。
「無理しなくていいからな。オシッコとウンチだけしてこよう」
マージとワルテルを外に出す。
「ワルテル、今日は勝手に動くなよ。マージが最優先だからな」
ワルテルに話しかけながら、マージを見守る。マージは左右によろめきながら、なんとか歩いている。いつもオシッコをする場所に行き、屈んだ。踏ん張っている前脚がぶるぶる震えているのが夜目にもよくわかる。できることなら支えてやりたい。だが、それはマージのプライドを傷つけることにも繋がるのだ。自力でできる間はそっとしておかなければならない。
用を足し終えて、マージは腰をあげようとした。ぐらりと身体が傾く。慌てて駆け寄ろうとしたが、マージはなんとか踏ん張って転ぶのを避けた。
「マージ、頑張ったな。ほんとによく頑張ったな」
マージはきょろきょろと視線を左右に振り、やがて、わたしを見上げた。もう戻りたい−−その目はそう訴えている。
「わかったよ、マージ。長い散歩はまた、明日行こう。マージはずっと、おれと一緒に朝、散歩に行くんだからな」
マージを別荘に戻し、後のことは連れあいに任せて、わたしはいつものようにワルテルと自転車で出かけた。
「ワルテル、今日はいい子だったな。マージがあんなふうになる日は、これからもいい子でいてくれよ」
必死になって自転車と併走するワルテルにわたしはいった。マージの元に早く戻りたい。だが、今日、いろんな我慢を強いられたワルテルのためにもっと長く走っていてやりたい。ジレンマを抱えながら、わたしはペダルをこぎ続ける。
部屋に戻り、馬のアキレス腱のジャーキーの袋を開けた。ワルテルより先にマージが反応する。これなら大丈夫だ。マージの食欲は回復しつつある。
「ほら、食べろ、マージ。ゆっくり噛むんだぞ」
もちろん、わたしの声はマージの耳には届かない。マージはあっという間にジャーキーを飲みこみ、もっともっととおねだりした。
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