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8月5日 軽井沢 22日目
目覚めると異臭がした。またマージか・・・慌てて起きあがったが、マージはわたしのベッドの足元で眠っている。異臭は居間の方から漂ってくる。トイレシートの上に、大量の下痢便が乗っていた。マージはシートの上では用を足さない。ということは、ワルテルだ。
「ワルテル、おまえも下痢か・・・」
嘆息しながらウンチを始末する。シートの上なのでマージの下痢便の始末より楽だが、気分は暗く沈んでいった。
いつものようにスポーツパークで朝の散歩を楽しむ。昨日と同じで空は呪わしいほど青く、ぎらついた太陽が地上のすべてのものを焙ることを楽しんでいる。クールコートを着せていたとしても、体調の悪い二匹をグラウンドで遊ばせることは躊躇われた。ドッグランの木陰の中を歩き回る。草を食えないマージは不満そうではあったが、とことことことことわたしの後をついてくる。10分もしないうちに、シャツが汗に濡れて背中に貼りついた。マージの息も荒い。遠くにいるワルテルを呼んでも、いつものような全速力ではなく、小走りで戻ってくる。
もう戻った方がよさそうだ−−そう判断して別荘に戻った。医者の診断を仰ぐまで、朝ご飯も与えないことにした。そんなこととは露知らない犬たちは、わたしの周りをうろついて空腹だと訴える。
「腹減ったよな、ご飯食べたないよな。だけど、今日は我慢しろ」
こんな時に限って、犬たちはわたしの言葉が聞こえないふりをする。
10時前にN氏が帰京し、わたしは犬たちを菊池動物病院に連れていった。病状を説明し、トイレシートの上にしていたワルテルのウンチを見てもらう。
虫はいない、細菌も見られない−−この数日間の暑さでしょうねと先生はいった。朝夕は涼しいのに、昼間はうだるように暑い。その気温の変化に身体が追いつかないんでしょう。いわゆる大腸性の下痢だと思います。
やはり、暑さか・・・せめてエアコンがあればもっと涼しい環境で過ごさせてやれるのだが、こればかりはどうにもならない。早く暑く過酷な夏が去ってくれるのを祈るばかりだ。
薬をもらい、別荘に戻る。量を少なくするのなら、ご飯を与えても大丈夫という菊池先生の言葉のおかげで、犬たちは待望の朝飯にありつけることになった。
近所のスーパーで買ってきた無添加、無塩の野菜ジュースを十三穀米入りご飯にかける。動物性タンパク質を与えるのは怖かったので絹豆腐を崩し入れ、フリーズドライの納豆をかけ、最後にオリーブオイルを垂らして食べさせる。
犬たちはあっという間に食らいつくし、もっと寄こせとばかりにわたしの足に絡みついてくる。
「朝ご飯はもう、お終いだよ。夜まで待て」
わたしは断固とした口調でいった。わたしがそういう声を出す時は、なにをねだっても無駄だということをマージは知っている。「あ、そう」という感じで、マージは床の上に寝転がった。それを見て、ワルテルもベッドルームの自分の場所に移動していく。
静かな時間が戻ってきた。
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ドッグランの木陰にいても、熱気はじわじわと押し寄せてくる。 |
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病院の待合室にて。いやだわぁ(マージ談)。 |
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小僧は気楽でいいわね(マージ談)。 |
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ねえ、マージはどうして楽しくないの(ワルテル談)。 |
* * *
汗まみれになりながら仕事をしていると、3時半すぎに連れあいが戻ってきた。犬たちが騒ぎまくって仕事にならない。未練たらたらでパソコンの電源を落とし、犬たちを車に乗せて、散歩がてら連れあいに土地を見せるために別荘を出た。
まずは南原の土地だ。塩沢通りから別荘地へと続く道は両脇に落葉松の木が並んでいて、静謐で美しい。連れあいが感嘆の溜息を漏らす。
「雲場池の辺りに負けないぐらいいい雰囲気のところだね」
「だろう?」
別荘地に車を乗りつけ、犬たちを降ろして土地を見て回る。芝の緑が目に眩しくて、犬たちが落ち着きをなくしてリードを引っ張りはじめた。
「マージ、ワルテル、ノー!」
マージは不満そうだった。軽井沢に来てからはほとんどノーリードで自由気ままに歩き回っていたのだ。リードがいやでしょうがないらしい。しかし、ここは我々の土地ではない。勝手に歩き回らせるわけにはいかないのだ。
不満たらたらのマージを引きずって、いくつかの区画を見て回った。最初はきらきらと輝いていた連れあいの目が次第に曇っていく。
「気に入らない?」
「なんか、隣が近すぎる気がする。東京ならしょうがないけど、せっかくこっちに家を建てるんなら、隣近所のこと気にしないようなところがいいと思って」
300坪も敷地があるのになにをいい出すかと思ったら・・・しかし、彼女の気分がわからないでもない。分譲がはじまったばかりの別荘地では隣人の顔がはっきりしない。どんな連中が土地を買って家を建てるか−−はっきりいえば賭けだ。
ああだこうだといいながら土地を見ていると、たまたま近くを通りかかったという清水さんがやって来た。途端に、連れあいが質問攻めにする。連れあいが納得するまで、わたしはマージたちを連れて、分譲地内を歩き回った。
「それじゃ、次の土地を見に行こうか」
ようやく話し終えたらしい連れあいに声をかけて車に乗りこんだ。清水さんが先導してくれる。よかった。道をはっきり覚えているかどうか、自信がなかったのだ。
国道18号を軽井沢町役場から町道に入り、坂道をずんずん登っていく。新軽井沢、旧軽井沢に比べると、はっきりと空気が澄んで、爽やかになっていくのがわかる。曲がりくねった細い山道に、連れあいも最初のうちは半信半疑という顔をしていたが、目的地にたどり着いて車を降りると、思いきり深呼吸をして微笑んだ。
「いいじゃない、ここ」
700坪の傾斜地は、なぜだか彼女の心を捉えたらしい。南東に離山、南西に中軽井沢の町が見下ろせる、展望が売りの土地だ。隣近所といっても、樹木や道路に遮られて気になることもない。上物に金はかかるだろうが、ここなら自由な発想で家を建てることもできる。道が狭いので犬たちの散歩には不都合があるが、なに、車でドッグランまで行けばいいのだし、夜は敷地内に柵を作って、そこで遊ばせればいいのだ。
また清水さんにマシンガンのように質問を浴びせる連れあいを残して、わたしはマージたちと敷地内を歩き回る。造成仕立てで土が剥き出しだが、犬たちは懸命に地面の匂いを嗅いでいる。
「マージ、ここは涼しいだろう」
標高差は150メートル程度だろうか。それでも、気温で3度、湿度で10パーセントは下より低い気がする。快適だ。
車を停めてある場所に戻ると、連れあいはまだ清水さんを質問攻めにしていた。わたしも犬も空腹だった。時計を見ると、別荘を出てから一時間半が経過してた。
「そろそろ戻ろうよ。明日、安井さんにもここ見てもらって、いろいろ聞けばいいからさ」
明日はサッカー観戦仲間の建築家が遊びに来ることになっている。超友達値段で設計を押しつけてやるつもりなのだ。彼の意見を聞いて、OKが出るようなら、ここを買うことになるのかもしれない。
混んでいる18号を避けて、山道を通って旧軽井沢に戻る。坂があるので徒歩は大変だが、中軽井沢にも旧軽井沢にも車なら5、6分の距離なのだ。そういう意味では南原の土地より便利ではある。あくまでも、車があると仮定しての話だが。連れあいは免許がないし、取るつもりもない。それでも、この土地を大いに気に入ったようだった。
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分譲地にて。 |
* * *
腹減ったと暴れ回る犬たちをなだめながらケーナインヘルスを煮る。薬の効果が出たのか、お腹の調子も悪くはないようだ。しかし、まだ油断はできないので、馬肉の代わりに銀ダラをケーナインヘルスと一緒に煮込んだ。
冷めるのを待って食べさせる。朝ご飯が少なかったので、よほど腹が減っていたのだろう。マージもワルテルもあっという間に食い尽くし、食べ残しと涎で汚れた口をわたしの太股に押しつけてくる。
もっとちょうだい、もっとちょうだい、全然お腹一杯にならないよ。
「これ以上食って、また下痢するつもりか!?」
わたしが一喝すると、犬たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
今夜は生姜焼きを作るつもりで食材も買っておいたし、ご飯も炊いてあった。しかし、土地を見るのに予想外に時間がかかり、これから食事の支度をはじめるとなると、夕食の時間がかなりずれ込むことになる。わたしも連れあいも死ぬほど空腹だった。
犬たちに留守番を任せて、我々は町に出た。軽井沢駅の近く、唯川大姐お勧めの「藤村」という居酒屋に行く。すると、唯川大姐の旦那さんがひとりで飲んでいた。
「やっぱり、毎晩この近辺に出没してるんだ」
笑いながら挨拶を交わし、隣に座らせてもらう。唯川大姐は打ち合わせをしているらしい。食後、「藤村」の隣の「たかくら」で合流するのだという。
「やっぱり、たかくらにも毎晩行ってるんだ」
連れあいと3人で、犬の話で盛りあがる。「藤村」は魚と串焼きの店で、店員がふたりしかいないので料理に運ばれてくるのに時間がかかるという欠点があるが、しかし、口に入れたものはみな、待たされただけのことはあった。
8時過ぎに唯川大姐と合流するために、旦那さんが席を立った。我々も9時前には食事を終えていた。唯川大姐たちともう少し飲みたいという連れあいを残し、わたしひとりで別荘に戻る。もう少し飲んでもよかったのだが(どうせ、ひとりで飲むことになるのだ)、犬たちのお腹の具合が心配だった。三日続けてウンチの後始末をするのは辛すぎる。
異臭を覚悟してドアを開けたが、犬たちは下痢をすることもなく、狂乱のダンスでわたしを出迎えた。
「そうか。薬が効いて、下痢治ったか」
わたしは二匹を代わる代わる抱きしめながら、自分のために喜んだ。
犬たちと外に出て、しばし歩く。昼間と違って冷たく湿った空気が肌にまとわりついてくる。犬たちの忙しない呼吸も昼間よりは緩やかだ。空を見上げると、木の葉の合間に星空が見えた。明日も暑くなるよ−−星々が瞬きながら、そう教えてくれた。
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