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8月6日 軽井沢 23日目
今日から7時に起きると決めて、目覚ましをセットしたのはわたしだ。しかし、目覚ましがなると、世界に満ち溢れている悪意のすべてをだれかの責任になすりつけたくてしかたがなかった。たった30分−−いや、犬どもに目覚ましより先に起こされることを考えるとたった15分程度の違いなのだが、脳も身体も大いなる不満を訴えている。
カーテンの隙間から外を見ると、青い空とぎらついた陽射しがわたしを嘲笑っていた。急いで支度を整え、犬たちと散歩に出かける。
スポーツパークには、ワルテルを恐怖のどん底に叩き落とした犬軍団がいた。ワルテルが真っ先に気づいて、車の中で吠えはじめる。それを聞いた犬軍団も「てめえ、この前とっちめられたくせに、まだ懲りねえか」とばかりに吠え返してきた。
これではお互いに迷惑になる。スポーツパークは諦めて湯川ふるさと公園に行こうかと車の中で考えていると、犬軍団の飼い主がやって来た。
「今、ちょうど帰るところだったんです」
「本当? 気を使う必要はないよ」
おそらく、我々と鉢合わせするのを避けて、早い時間に犬軍団をここに連れてきていたのだろう。わたしがいつもより30分早く出てきたために遭遇してしまったのだ。犬軍団に悪いような気がした。
「いえ、本当に。こないだのあれで、怪我はなかったですか?」
「うん、大丈夫」
飼い主は4頭の犬を(ラブラドールは知り合いの犬で預かっていただけだそうだ)巧みに誘導してベンツのセダンに乗せていく。セダンに4頭の大型犬が乗っているのを見るのは、なんというか、現実味が薄れていく。しかし、犬軍団は気にする素振りも見せず、ワルテルに牙を剥き、吠えたてている。ワルテルも吠え返しているが、最初よりは迫力が薄れていた。
ベンツが去っていくのを待って、ワルテルを車から降ろした。いつもなら、車を降りるやいなや駆け出そうとするのだが、慎重に辺りの匂いを嗅いでいる。わたしとマージがグラウンドの方に歩いていくと、やっと怖い兄さんたちはいなくなったと判断し、ロケットダッシュを繰り返しはじめた。
たった30分の違いだが、明らかにいつもより過ごしやすかった。しかし、じわじわと気温が上がっていくことに変わりはない。30分ほどで散歩を切り上げ、別荘に戻った。
十三穀舞入りご飯に野菜ジュースをかけ、ヨーグルト、焼き鮭、すりゴマ、ごま油をまぶして朝ご飯。人間用には棒々鶏サラダ、納豆、各種漬け物、あおさのみそ汁。犬も人間も満足して食事を終えた。
夕方やって来る建築家夫婦、弁護士夫婦のリクエストはバーベキューなので、連れあいと一緒にツルヤまで買い出しに出た。旧軽井沢から中軽井沢に向かう道は順調に流れていたが、逆方向は渋滞がはじまっていた。ハイシーズンの軽井沢の名物だ。帰り道は裏道を通ろうと、たった3週間の滞在のくせに通ぶったことを考えながら車を運転する。
食いきれないだろうというほどの食材を買い込み、離山の裏を通って旧軽井沢ゴルフクラブの脇を通り、六本辻に出る。所要時間7分。渋滞も全くなく、山の空気を吸いながらの快適なドライブ。カーナビの性能がいくらあがったといっても、こういう道は指示してくれない。地元の人に教えを請い、自らの知識として蓄えていくしか至便に暮らす方法はないのだ。
* * *
ツルヤから戻り、散らかった部屋を片づけていると、すぐに空腹を覚えはじめた。ツルヤで買ったベーグルを縦半分に切り、ツルヤ特製中濃ソースをたっぷりかけた、これまたツルヤのお総菜であるキャベツメンチを挟んでベーグルサンドにしたものを食べる。
うまっ。ベーグルはもちもち、メンチはジューシー、ソースが濃厚。これは病みつきになってしまうかも・・・。
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あ、パンだわ! |
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ちょうだい、ちょうだい、パン、ちょうだい!! |
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ちぇっ、もらえなかったわ・・・ |
食後はソファに横になって、怠惰な昼寝を貪った。除湿器と扇風機のおかげで、室内の空気は快適だ。眠ろうと思う間もなく深い眠りに落ち込んでいく。
ワルテルの吠え声で目が覚めた。宅配便の来訪だ。せっかくの眠りを妨げられて、ワルテルを叱りながら時計を見ると3時半だった。たっぷり2時間は眠っていた計算になる。
4時前に建築家夫妻がやって来た。荷ほどきもしていない建築家を拉致して犬たちと一緒に車に乗せる。国道18号に出たが、中軽井沢方面は凄まじい渋滞で車がほとんど動かない。適当なところで右折し、裏道を使う。すると、5分で目的地に到着だ。建築家に土地を見せながら、犬たちを歩かせる。軽井沢に来る前も、来てからも、葉っぱにはなんの興味も示さなかったワルテルが地面から映えている大きな葉っぱをばりばりと音をたてて食いはじめた。マージを見て覚えてしまったのか。牛がもう一頭増えるのか・・・溜息が出てくる。
建築家は土地の広さは気に入ったようだが、敷地のすぐ前を走る町道の存在が気になるようだった。
「ちょっと落ち着かないんじゃないか、ここじゃ」
「そんなことないよ。今はシーズンだから交通量もそれなりに多いけど、普段は静かなところだからさ」
「馳君がそういうならいいけど・・・」
「だめなのかな、この土地?」
「いや、いいとも悪いともいえない。だけど、上を望んだらきりがないしなあ」
無数の物件を見、家を造ってきたプロの目は我々のそれより数段厳しい。
「でも、周囲にちょろちょろ家建ってるし、そんなに悪いところじゃないと思うよ。将来的に土地の値段も下がらないだろうし」
とりあえずのお墨付きをもらって、再び車に乗りこむ。散歩が短くて不満げな犬たちのために寄り道をしてスポーツパークで少しだけ遊んだ。
建築家は裸足になって、ワルテルを芝生の上を駆け回る。無理をして筋を違えたり腰を痛めたりしないかと冷や冷やしながら見ていたが、建築家もワルテルもそれはそれは楽しそうだった。
ワルテルのようには走れないマージはわたしと一緒にゆっくり歩く。時刻は午後5時。太陽は雲に覆われ、気持ちのいい風が吹きつけてくる。マージは表情を緩めて歩き、草を食む。
マージ、マージ、マージ、楽しいか、マージ?
わたしは口には出さずにマージに語りかける。マージはわたしを見上げ、尻尾を振る。
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建築家とたわむれるワルテル。 |
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あー、楽しかったな! |
* * *
弁護士夫妻も合流して、バーベキューの支度がはじまる。わたしはその前に、犬たちの晩ご飯の支度だ。ケーナインヘルスを煮込み、馬肉と混ぜ合わせて冷めるのを待つ。冷めたら、ごま油と各種サプリ、お腹の薬をトッピングして出来上がり。なぜだか建築家の細君を異常に警戒してベッドルームにこもったままだったワルテルも、ご飯だけは他人を気にせずにがっつく。
犬たちの食事が終わると、我々は外に出た。我々の別荘のすぐ裏手が、バーベキューの部隊だ。焼き係を建築家に任せて、白ワインで乾杯する。ワルテルの吠え声が聞こえてくる。ぼくも混ぜてよ−−ワルテルはそう訴えている。しかし、バーベキューの最中に犬を連れてくるのは恐ろしい。至るところに涎をばら撒かれるのが落ちだ。
シーフードから羊肉、鶏肉、牛肉まで食って飲んで夜が更けていく。建築家はワイン狂でもあり、彼がピックアップしたテーブルワインは、安いが旨いものばかりだった。大方の食材を平らげたところで、犬たちを呼んでくる。マージもワルテルも狂ったようにバーベキューテーブルの周りの匂いを嗅いでいた。
腹がこなれるまで外で談笑し、犬たちを軽く歩かせて、10時前に別荘に戻った。
ワインのせいでわたしはすっかり酔っていた。建築家に執拗に語りかける酔った己を、冷めた目を−−小説家の目を持つ自分が見つめている。
「みんな焦るなっていうんだ。じっくり土地を探して、いろんなことを検討して決めなきゃってさ。それはおれもわかってる。だけど、マージのために家を建てるって決めたんだ。マージが生きてる間に家ができなきゃ意味がないんだ。だからさ、頼むよ。マージが生きてる間に家造ってくれよ」
建築家は苦笑しながら頷いている。
「なあ、マージ、おまえからもお願いしろ。わたしのために早く家建ててって。死ぬ前に雪遊びたっぷりしたいからお願いって」
酔っていながら冷めている。冷めているくせにどんどん酔っていく自分をとめることができない。わたしの酔い方はいつも同じだ。
弁護士の父親が軽井沢にマンションを持っていて、借り手を捜しているという話が出た。家ができるまで、軽井沢で住む場所を探そうと思っていた矢先なので、詳しい資料が欲しいと弁護士に頼む。そんな時のわたしははっきりと冷めている。
いつの間にかシャンパンが開いていて、わたしの紙コップの中で黄金色の液体が泡立っていた。わたしは一息に飲み干し、また、建築家を脅しにかかる。
「な? マージが生きてる間に。頼む」
マージは眠っていた。ワルテルはベッドルームにこもって出てこない。
ホテルに帰るという弁護士夫妻を送り出して、わたしはワルテルと共にベッドルームの住人になった。
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