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8月7日 軽井沢 24日目
午前7時に目覚ましの鳴る音で起こされた。頭と身体が重い。明らかにワインの飲み過ぎだ。ワルテルが足元で寝ていて頭をあげたが、マージは居間で寝ているようだった。起こしにこないのをこれ幸いと、目覚ましを30分後にセットし直して再び眠りの中に突入していく。
しかし、次に目覚ましが鳴ると、ワルテルとマージがベッドに突進してきた。
「わかった、わかった」
隣のベッドで寝ている連れあいを起こさないようにしながら居間に行き、散歩の支度をはじめる。建築家夫妻もまだ夢の中にいるようだった。
スポーツパークへ行き、グラウンドで犬たちと遊ぶ。昨日より若干雲が多く、その分涼しく感じられる。だが、雲の隙間から太陽が顔を覗かせると、緑の芝は喘ぎながら水分を蒸発させる。グラウンドの端っこの日陰を行ったり来たり−−ワルテルはボールを追いかけている。
30分もそうしていると、マージの脚が止まりはじめた。10分ごとに1度、気温が上がっていくような感じだ。
「そろそろ帰ろうか」
犬たちを車に誘導し、旧軽銀座に向かう。浅野屋で総菜を買い、向かいのフランスベーカリーで塩クロワッサンとバゲットを買う。レジの前で並んでいると、女性の店員がわたしの顔を見「こんにちわ」と声をかけてきた。
戸惑いながら挨拶を返すと、彼女の顔がほころんだ。
「わたしの息子が先生の大ファンで、軽井沢の日記も読ませてもらってますよ」
なるほど、そういうことか。わたしも顔をほころばせる。
「ありがとうございます」
「ワンちゃんの調子はどうですか?」
「こっちに来てからすこぶるいいですね」
「そうでしょう。美味しい空気と美味しい水と美味しいご飯。元気にならない方がおかしいものね・・・あ、そうだ、先生。無農薬栽培の美味しい完熟トマトがあるの。お持ち帰りになりなさい」
恐縮するわたしをその場に残して、彼女は店の奥に消えていった。パンのお金を払っていると、別の女性店員が「もう少しお待ちください。母がトマトを持ってきますので」といった。なるほど、彼女はフランスベーカリーの店員ではなく経営側の人間なのだ。
1、2分待っていると、彼女が現れた。手にはまるまると肥えた真っ赤なトマトが三つ入ったビニール袋がある。
「美味しそうですね」
「美味しいですよ。とても甘くてね。どうぞ」
「ありがとうございます」
気分良く店を出た。本当にありがとうございます。
別荘に戻り、犬と人間の朝食の支度をする。10時にマージを病院に連れていかなければならないので、大急ぎでやらなければならない。十三穀米入りご飯に野菜ジュースをかけ、焼き鮭とヨーグルト、すりゴマ、各種サプリにお腹の薬を混ぜ込んで食べさせる。
総菜を皿に盛りつけ、バゲットを切り、マンゴージュースをコップに注いで人間の朝食もできあがり。
時間は9時半。大急ぎで食事を胃に送り込み、マージと共に病院に向かう。いつもはわたしひとりなのでシリアルのような簡単な朝食を済ませるだけだが、人の分の朝飯をちゃんと用意するとスケジュールがタイトになってしまう。
病院から戻ってコーヒーを飲んでいると、ワルテルが建築家の細君から一メートル離れたところに寝そべり、細君の一挙手一投足を見つめている。いや、見つめているというより見張っているといったほうが適切だろうか。理由はわからないが、ワルテルは警戒しているのだ。いつ、細君が自分に襲いかかってくるのかと身構えている。
「いやあ、嫌われてるなあ。こいつ、女好きなのに」
「わたし、なんにも悪いことしてないのよ」
しかし、ワルテルは建築家には近づくが、細君には決して近づこうとしない。チキン野郎の面目躍如といったところか。
11時前に、建築家夫妻がそろそろ暇するといって腰をあげた。彼らがいなくなると、ワルテルはほっとしたように眠りに就いた。
「なあ、ワルテル、彼女のなにが怖かったんだよ?」
もちろん、ワルテルは答えてはくれない。
* * *
建築家夫妻が帰った後は仕事をした。午後1時半ごろに空腹を覚え、バゲットと生ハムだけの簡単な昼食を取る。パンの匂いを嗅ぎつけて、犬たちが起きあがってくる。
「やらないよ、もう。量が少ないんだから」
涎を垂らす犬たちに背を向けて、パンと生ハムを胃に送り込む。
夕方、またスポーツパークへ行く。空はどんよりと曇っており、数日ぶりの雨の予感に植物たちが震えていた。
しばらく遊んでいると、いきなり雷が轟いた。一心不乱に草を食んでいたマージがびくりと身体をふるわせ、雷がした方向をじっと見つめた。
また雷が鳴る。低く長く尾を引く威嚇的な音に、マージはわたしを見つめ、次いで車の方を見た。ワルテルも不安そうに空を見つめている。
「マージ、帰るか?」
わたしが声をかけると、マージは一目散に車に向かっていった。雷が鳴るたびにマージは立ち止まり、振り返り、さらに速度をあげて車に向かっていく。
そんなマージをワルテルが不思議そうに見ている。
「ねえ、マージ、どうしちゃったの?」
ワルテルはわたしを見上げた。
「雷が怖いんだよ。おまえだって、この前の凄い雷の時は部屋の中をうろついて落ち着かなかったじゃないか」
ワルテルはなにを勘違いしたのか、マージの後を追いかけて猛然と走っていった。
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離山と痒がり犬。 |
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マージと痒がり犬。 |
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ここで遊ぶのが好きなの、大好きなの! |
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え? なんの音? また雷!? |
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晩ご飯の支度をしている最中に激しい雨が降り出した。雷もやむことなく続いている。スポーツパークにいる時は雷鳴だけだったが、カーテンを通して稲光が見えるようになっていた。空は意外と明るいのだが、雨粒は大きく重く、雹のような音をたてて屋根を打っている。
いつもなら涎を垂らしてご飯のできあがりを待っているマージも、部屋の隅で小さくなっていた。それでも、食欲を満たしたいという欲求には勝てず、雷鳴を気にしながらご飯を食べた・・・が、馬肉の周りだけを食べ、3分の1を残してまた部屋の隅に行ってしまった。
ワルテルは別だ。わたしが気を抜いている間に、マージの食べ残しまで綺麗に平らげてしまった。
人間の食事は生姜焼きだ。厚めの豚ロースに包丁で切れ目を入れ、ごま油で焼く。肉がほどよく焼けたところで手作りのタレを投入して軽く煮込む。タレに漬け込んでから焼くと肉が固くなるので、わたしはいつもこのやり方で生姜焼きを作る。千切りのキャベツを添えてテーブルに並べる。
茄子のみそ汁にミョウガの千切りをくわえ、梅干しと漬け物が付け合わせだ。肉がジューシーで甘く、あっという間に平らげてしまった。
食後は東アジア選手権の日本対韓国を見ながら、雨があがるのを待っていた。
9時過ぎに雨はあがった。サッカーを見終えてから犬たちと外に出る。貸別荘地はしっとりと濡れていて、木の上から雨のように水滴が舞い落ちてくる。マージは用心深く耳を澄ませていたが、もう雷は鳴らないと知ると、いつものようにひとりで歩き出した。
20分ほどぶらついてから、別荘に戻る。犬たちの足を拭くのを連れあいに任せて、わたしは犬たちの朝ご飯用のスープを作りはじめた。
雷が鳴っている間はマージが恐怖に顫えていたが、今度はワルテルの番だ。
東京にいる時は、スープマシーンを使ってスープを作るのだが、ワルテルはスープマシーンの稼働音が苦手なのだ。スープマシーンを使わなくても、わたしが台所で野菜を刻みはじめるだけで金玉を縮みあがらせ、落ち着きを失い、忙しない呼吸を繰り返すようになる。
「ワルテル、今日は機械は使わないから大丈夫だぞ」
そう優しくいってやっても、ワルテルの耳にはなにも届かない。
部屋の隅っこで顫えるワルテルを見ながら、マージが鼻を鳴らした。
「ふん、だらしのない小僧ね」
こらこら、だらしないのはおまえも一緒だろうに。
トマト、モロヘイヤの新芽、セロリ、茄子、煮干しを煮込んでいる間に、シャワーを浴びる。身体はべとべとだった。
シャワーから出て、スープの出来具合を見る。わたしがキッチンに行くたびに、ワルテルがびくりと身体をふるわせる。
「馬鹿だなあ、おまえは」
わたしは顫えるワルテルの背中を撫でながら、笑った。
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・・・早く雷やまないかしら。 |
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そろそろおやつの時間じゃないのかしら? |
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