軽井沢日記
-
8月10日 軽井沢 27日目

 夢を見ていた。マージとワルテルが悲しげな鳴き声を上げている。散歩に行きたがっているのだ。早く起きなければ−−わたしは思う。だが、身体がぴくりとも動かない。まるで石になってしまったかのようだ。起きようともがけばもがくほどわたしの身体は硬く、重くなっていく。そのうちマージが一際甲高い声で吠えた。マージが苦しんでいる。起きなければ、病院に連れていかなければ、マージが死んだら、おれはおれをゆるさないぞ。
 そう思った瞬間、目が覚めた。目覚ましに手を伸ばす。6時45分。溜息をひとつ漏らし、また目を閉じた。
 目覚ましが鳴るのと同時にベッドから降り、カーテンを開ける。地面は濡れ、空はどんよりと曇っていた。気温もかなり下がっている。
 今にも雨が降り出しそうだったので、急いで支度を整え、犬たちと外に出た。またまたスポーツパークへ。グラウンドの芝はすっかり濡れ、ときおり小雨が落ちてくる。それでも、犬たちはそんなものは関係ないとばかりに歩き、走る。まるで、昨日の夜の分を取り戻そうとしているかのようだ。マージもワルテルも草を食べようとはしない。昨日の芝刈りでなにかが変わったのだろう。刈られた芝が元気を取り戻して栄養を溜めこむまで、これが続くのかもしれない。
 散歩から別荘に戻り、マージたちの足を拭いていると、いきなり雨が降り出した。なんの予兆もなく、唐突に大粒の雨が屋根を叩き、世界を灰色に塗り潰していく。このまま雨があがらなければ、きっと今日の花火大会は中止だろう。
 昨日作っておいたスープ(トマト、オレンジパプリカ、モロヘイヤの新芽、サツマイモ、煮干し)を炊きたての十三穀米入りご飯にかけ、レンジでチンしたメカジキ、ヨーグルト、すりゴマ、オリーブオイル、各種サプリを混ぜ込んで犬たちに与える。
 人間の食事は牛乳とカロリーメイトだ。侘びしいが、致し方ない。
 12時前まで日記を書いたり雑用を片づけたりしてから、久しぶりに気合いの入った昼食を作る。インターネットで取り寄せたフォワグラを使った丼だ。これもまた、バーベキューの時に焼こうと思って確保していたのだが、出すのを忘れたものだ。
 まず、醤油、味醂、砂糖を混ぜて煮詰める。これがタレ。タマネギと茄子を細く切って炒め、皿に取っておく。塩胡椒を振り、小麦粉を軽くまぶしたフォワグラを焼く。焼き上がったフォワグラをタレに絡め、野菜と一緒にご飯の上に乗せる。
 うーん、デブの素だが、しかし、箸が止まらない。わたしも連れあいも無言で丼と格闘する。食い終えて、ほっと一息−−旨かった。
 フライパンに残った脂も勿体ないので取っておく。
 昨日のトウモロコシの時は周りに群がってきた犬どもはフォワグラの匂いに狂喜することもなく眠っている。不自然な食材は彼らの食欲を刺激しないのかもしれない。
 
シャンプーした時に、首輪にリボンつけてもらっちゃった。
シャンプーした時に、首輪にリボンつけてもらっちゃった。
-
さリボンのアップ。
リボンのアップ。
-
バンカーに入ったら叱られちゃった・・・
バンカーに入ったら叱られちゃった・・・
-
マージが脚を引きずって歩くのがよくわかる。
マージが脚を引きずって歩くのがよくわかる。
-
後ろになにかがいるの ・・・。
後ろになにかがいるの・・・ 。


* * *

 5時半に清水さんが迎えに来ることになっているので、3時半に仕事を終え、犬たちと外に出た。車に乗るものだと決めこんでいたマージは、わたしが別荘地の森の中に入っていくときょとんとした顔をした。
「マージ、今日は時間がないから、ここで散歩だぞ」
 ワルテルはそこがどこだろうと草と木があれば駆けめぐるだけだ。だが、マージは明らかに不満そうな表情を浮かべて仁王立ちし、駐車場の方にしきりに視線を向けている。
「マージ、ここだって楽しいだろう? ここに来たばかりの時は嬉しそうに歩いてたじゃないか」
 声に少し怒気を込めると、マージは渋々歩きはじめた。10分ほど歩き回って、マージを別荘に戻し、わたしとワルテルは再び自転車で別荘の外に出る。近所のセブンイレブンまでワルテルには軽いジョギングだ。
 晩飯にありつけるのは8時近くになりそうなので、ちょっと腹に入れておくものを買って、また別荘に戻る。自転車のスピードを少し上げると、ワルテルは困ったような顔をしながら走るペースをあげてついてくる。
「ワルテル、頑張れ。ワルテル、いいぞ」
 頑張りを褒めてやると、ワルテルは得意げに顔をあげた。
 ケーナインヘルスと馬肉の晩ご飯を準備して、我々は軽食を腹に詰め込む。犬たちにご飯を与えて支度を整えると、清水さんがやって来た。奥さんと一善君も一緒だ。清水さんの車に乗り込み、いざ、出発。どの道も混雑していたが、清水さんは裏道を使ってすいすいと車を走らせる。御代田や小諸といった軽井沢周辺の土地を案内してもらいながら上田を目指したが、東御市に入った辺りから車が動かなくなった。さすがの清水さんも、この辺りの裏道は知らないらしい。
 花火大会は7時開始の予定だが、なんとか上田市に入ったのが7時直前だった。渋滞に苛立ちながら西の空を見上げると、まだうっすらと白い夜空に、一発、二発、花火が上がりはじめた。夜空に広がって散る火花の大きさと、加薬の炸裂する音の大きさが、どれだけ近くで花火が打ち上げられているかを物語っている。
 なんとか駐車スペースを見つけ、ビール、大阪焼き、明石焼き、各種肉の串焼きなどを買い込んで、花火見物用に解放された河川敷のアスファルトの上に腰を降ろす。
 打ち上げる花火のサイクルが終わるたびに、スピーカーから柔らかい女性の声が流れてきて、次の花火のスポンサーの名前を読み上げる。地方都市で大きな花火大会を催そうと思ったら、地元企業の協力を取りつけるしかないのだろう。そんなアナウンスはいいから次の花火をと思いつつ、しかし、これはこれでいいのかもしれないとも思う。
 とにもかくにも、すぐ近くで打ち上げられる花火の迫力は凄まじい。東京にも大きな花火大会はいくつもあるが、昼間から場所取りに奔走するか、コネを駆使するかしなければ、これだけ間近に花火を堪能できることは滅多にない。しかし、ここではぶらりと訪れただけでも、花火の華美と華麗と迫力を思う存分楽しめるのだ。
 大阪焼きも明石焼きも串焼きも旨くはなかった。だが、これでいいのだ。ソースで味をごまかした粉ものを食べながら花火を見る−−正しい花火の楽しみ方だ。
 我々のすぐ近くに立っていた、女子高生と思しき3人組が、花火そっちのけでお喋りに興じていた。
「えー、○×と付き合ってるの? いつから?」
 かしましい声は、若かりし頃の田舎の祭を思い出させた。わたしも悪友たちと連れだって縁日に出かけ、気になる女の子のことや、憧れのセックスについて、祭そっちのけでああでもないこうでもないと話しこんでいたものだ。
 照れくさくて甘酸っぱい青春の残滓−−東京では思い出したこともない。東京の祭は、田舎の祭とはそのあり方も、匂いも違う。
 わたしは田舎者だ−−唐突にそう思う。東京で暮らして22年、その間、一度たりとも脳裏に去来したことのない思いが背筋を貫いていく。田舎を憎み、東京に出、東京の人間になりきったつもりでいながら、わたしは生まれてから死ぬまで田舎者であり続けるのだ。田舎への憎しみも、都会への憧れも、その後にやって来た郷愁も、すべて田舎に生まれ落ちたからこそわたしに取り憑いた妄念だ。わたしはわたしであることを変えられない。どれだけ自分自身を嫌っていても、わたしはわたしであり続けるしかないのだ。
 数百発の花火が一時に打ち上げられて、2時間弱の宴は終わった。
 後に残されたのは家路を急ぐ人の群れと空に漂う煙、そして火薬の匂いだけ。祭の後はいつだって寂しい。
 
花火です。
花火です。
-
親馬鹿です。
親馬鹿です。


* * *

 缶ビールを2本飲んだだけなのだが、帰りの車中でわたしは不覚にも眠りこけた。別荘に着いたところで肩を揺すられ、清水夫妻に感謝の意を告げて、我々の帰りを待ちわびている犬たちの元に急ぐ。
 犬たちを外に出して、一緒に歩く。
「マージ、ワルテル、今日はな、花火を見てきたんだ。綺麗だったぞ。おまえたちも連れていってやりたいけど、きっと、あの音に怯えるんだろうな・・・」
 東京のマンションのベランダからは、神宮の花火大会を遠く望むことができる。だが、マージははるか遠くで聞こえる火薬の破裂音を雷と勘違いして恐怖に顫えるのが常だった。
 夜だというのに、マージは車に乗りたがった。わたしはしゃがみ、マージを抱きしめ、「ごめんな」という言葉を、何度も彼女の耳に吹き込んだ。


||   top   ||