軽井沢日記
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8月11日 軽井沢 28日目

 いつもなら布団を蹴飛ばしているのだが、起きてみるとしっかりと身体に巻きつけていた。気温が低いことがはっきりとわかる。暑くないのならもう少し寝ていてもいいかと考えたのだが、気配を察したワルテルがすっ飛んできてわたしの顔を舐め、尻尾をばたばた振ってわたしの眠気を吹き飛ばしてくれた。窓を開けると冷たい空気が流れ込んでくる。太陽は顔を出しているが、先週までの暑さは恐れなくてもいいようだ。
 犬たちとスポーツパークに行き、30分ほど遊ぶ。これだけ涼しければもっと遊べると思うのだが、マージが途中から帰ろうといいだすのだ。軽井沢に来た当初は一時間近く遊んでいたものだが、それが日常に取って代わり、身体がきつくなったところで帰りたくなるのだろう。
 スポーツパークのグラウンドで、低く飛ぶ赤とんぼを数匹見た。秋の訪れを告げる者たちの姿を見たのは何年ぶりだろう。そういえば、別荘の前のモミジがうっすらと黄ばみはじめていたっけ。秋が気配を消しながら、しかし確実に近づいてきている。
 別荘に戻ると、休む間もなく人間と犬の朝ご飯の支度だ。
 犬たちには作り置きのスープ、十三穀米入りご飯、馬の挽肉、大根おろし、すりゴマ、ごま油、各種サプリ。
 人間用には、昨日のフォワグラの脂を使って、炒飯を作る。
 フォワグラの脂を吸った米粒が美味で、塩加減も絶妙で、ああ、昨日のフォワグラ丼に勝るとも劣らぬ旨さだ。昨日同様、わたしも連れあいも満足してスプーンを置いた。
 メールをチェックしたり、日記を書いたりして時間を潰し、11時になったところで、連れあい、犬たちと共に散歩に出る。今日は部屋に掃除が入る日なのだ。掃除のおばさんたちが犬が苦手ということもあって、犬たちがいると徹底的な掃除がしてもらえない。ならば、掃除の間、出かけてこようではないか−−昨日、わたしが高らかに宣言したのだ。
 マージの体調を気遣いながらゆっくり歩き、近所にあるカフェ「マグノリア」に行く。ワルテルと一緒に後ろを歩いていた連れあいが驚いたというように口を開く。
「マージ、脚引きずってないね」
 引きずっていないわけではない。しかし、東京にいる時は後ろ脚の甲の部分をアスファルトに擦りつけるようにしてしか歩けなかったのに、軽井沢に来てからのマージは、足の運びは不格好なものの、ずっとましに歩けるようになっているのだ。
「こっちに来て毎日歩き回って、衰えてた筋肉が少し戻ってきたんじゃないか。それで、脚引きずらなくなったんだ」
 わたしはマージの頭を撫でながら答えた。木陰を歩いていてもマージの息は荒い。だが、マージに休むつもりはなさそうだった。
「マグノリア」のテラス席に犬たちと座る。ここはテラスのみ犬同伴可なのだ。
 まだお腹が一杯だという連れあいは紅茶とシフォンケーキのセット。わたしは生ハムとチーズのバゲットサンドとコーヒーのセットを頼んだ。犬たちは初めての場所と食べ物の匂いに興奮気味だ。サンドイッチもコーヒーも、味はまあまあ。近いので贔屓にしようかと思う。
 12時が近くなるに連れ客も増えていった。マージはすでにデッキにうつ伏せになって半分眠っていたが、ワルテルは新しいお客さんが来るたびに落ち着きをなくし、匂いを嗅ごうとする。そのくせ、若い女性が「可愛い」と近寄ってくると尻込みするのだ。
 ワルテルが他人や他の犬に吠えるのはただの虚勢だ。怖くてたまらないから先制攻撃をする。まったく、どっしり落ち着いた牡犬と一緒に暮らすという夢は叶いそうにない。
 12時を回ったところで店を出て帰途に着いた。木陰は涼しいが日なたは暑い。マージは前を行く連れあいとワルテルに追いつこうと、いつもより早足で歩いている。ゆっくり歩いてもいいのだとわたしが伝えても、マージは聞こうとしない。
 多分、プライドの問題なのだ。自分より格下のワルテルより後ろを歩かなければならないことが、マージには我慢できないのだ。わたしは荒い息を繰り返しながら、まっすぐ前を見つめて歩くマージの頭を撫でた。
「いいぞ、マージ。ワルテルに負けるな。その気持ちがあれば、もっともっとおれと一緒にいられるぞ」
 わたしの言葉が聞こえたのか聞こえないのか、マージは黙々と歩き続けた。
 マージが愛おしい。犬馬鹿だといわれようがなんといわれようが、マージはわたしの伴侶だ。常にわたしと共にあり、常にわたしを愛し、わたしの愛を望み、常に変わらぬ忠誠心を持ち続け、常にわたしを見つめてくれてきた。わたしが長く家を留守にすれば、食が細り、下痢をした。わたしが家に戻ると、その太く長い尻尾で廊下にある物を薙ぎ倒しながら喜んでくれた。わたしに叱られればうなだれ、褒められれば目を輝かせた。
 しかし、彼女はいつか逝く。わたしは彼女の忠誠に応えてやりたい−−考えるのはそれだけだ。彼女が逝くその瞬間までそばにいて、おまえを愛しているよと伝えてやりたい。おまえの苦しみはおれの苦しみだ、おまえの喜びはおれの喜びだ−−そう教えてやりたい。おまえはひとりで逝くのではない、おれの魂の一部と一緒に違う世界に旅立つのだとわからせてやりたい。
 寂しがることはない、おそれることもない。おれはいつもおまえのそばにいる。マージ、おまえがおれの虜であるように、おれはおまえの虜なんだ。
 そんなことを考えていると、ワルテルが振り返った。
 ぼくは? ぼくのことも愛してる?
 ワルテルはそう問うている。犬にはある種の精神感応力がある。ワルテルは、わたしが頭の中だけでマージに語りかけた言葉をはっきりと聞いたのだ。
 ああ、おまえのこともマージと同じぐらい愛してるよ。
 わたしはワルテルに伝えてやった。ワルテルは安心して前を向き、地面の匂いを嗅ぎはじめた。
 
なに怒ってるの?
なに怒ってるの?
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「マグノリア」にて。初めての場所に不安そうなマージと興味津々のワルテル。
「マグノリア」にて。初めての場所に不安そうなマージと興味津々のワルテル。
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いい匂いがするよ!!
いい匂いがするよ!!
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わたしたちももらえるの?
わたしたちももらえるの?
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へへへへ、パンもらっちゃった。
へへへへ、パンもらっちゃった。


* * *

 1時半に連れあいが東京に戻っていった。その後ろ姿が見えなくなっても、ワルテルはベランダの窓から外をじっと見つめている。マージは眠りこけている。
 4時まで仕事をし、またスポーツパークに向かう。グラウンドでは刈り取った芝を除去する作業が行われていた。マージはともかく、ワルテルは作業の邪魔をするおそれがある。
「今日はドッグランだな」
 グラウンドに行きたがる二匹を誘導してドッグランの中に入り、好き勝手に歩かせた。しかし、5分もしない内に雨が降りはじめた。はじめは小雨だったが、次第に雨足が強まっていく。とりあえず木のある方に移動したが、天然の傘を持ってしても、雨の勢いを止めることができない。
「マージ、ワルテル、帰るぞ」
 雨具の用意をしてこなかったことが悔やまれる。しかし、昼にイレギュラーの散歩をこなしているのだ。多少夕方の散歩が短くても問題はないだろう。
 犬たちを車に乗せ、しばらく雨の様子を伺ってみた。小振りになるようならもう一度犬たちをドッグランに連れていくつもりだったのだ。だが、空を覆った雨雲はわたしを嘲笑うように大粒の雨を落とし続けた。
 残念だったな、マージ、ワルテル」
 わたしはエンジンをかけ、車を発進させた。

* * *

 雨と共に湿度が急激に上がっている。ケーナインヘルスを煮ている間、わたしは汗をかき続けた。気温は20度ぐらいだろうか。それでも、高すぎる湿度は人に発汗を促すのだ。除湿器のスイッチを入れたら、湿度は90%だと表示された。やれやれ。
 ケーナインヘルスと馬肉を混ぜ込んだご飯を与え、わたしはひとり「ごはんや」へ行く。マグロの叩きとキノコの香味おろし。そろそろここのメニューも食べ尽くしつつある。
 食事を終えて別荘に戻り、犬たちに挟まれるようにして床に横たわる。二匹とも怠惰に横たわりながら、わたしが腹を撫でてやると尻尾だけ派手に振り立てる。そのうち首が痛くなってきたので、断りを入れてマージに枕になってもらった。犬の枕は気持ちがいい。少しうとうとしたが、マージが動いてわたしの頭が床に落ちた。
「痛ぇ・・・マージ、重かったか?」
 マージはわたしの眠りを妨げたことを悪いと思ったのか、わたしの鼻にキスをした。
「いいんだよ」
 マージの頭を撫で、起きあがってお茶を淹れた。葉巻に火をつけ、雨の音と犬たちの寝息に耳を傾けながら、小一時間ほどの宇宙遊泳に出かける。
 犬たちは雨が嫌いだろう−−散歩の時間が短くなる。わたしも散歩のことを考えると雨は憂鬱だ。だが、こうして別荘にひとり、木々に降りかかる雨の音を聞いて漫然と過ごすのは、嫌いではない。      

* * *

 夜の散歩の時間になっても雨はやまなかった。犬たちにレインコートを着せて外に出る。雨足は強く激しく、雨具を着ていてもあまり意味をなさなかった。マージもワルテルもあきらめ顔で、用を足してしばらく辺りをうろつくと、「どうせもう戻るんでしょ。いいわよ。代わりにおやつたくさんちょうだいね」という顔でわたしを見た。
 お言葉に甘えさせてもらう。犬たちの身体を拭き、シャワーを浴びた。浴室から出てくると、マージとワルテルは二匹でお行儀よく座り、ばたばたと尻尾を振りながらわたしを待ち受けた。
「おやつだな。わかったよ」
 おやつを与え、代わる代わる愛撫し、よく冷えた白ワインを抜いた。激しい雨にもかかわらず、間違いなく我々は満たされていた。
 リラックスしすぎたせいかどうか、マージたちのスープをことこと煮込んでいたのだが、それを失念してスープがすっかり煮詰まってしまった。慌てて水を足したのだが、犬たちは食べてくれるだろうか。
 せっかくの夜なのに、自分のせいで台無しにしてしまった・・・。



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