軽井沢日記
-
8月12日 軽井沢 29日目

 はっきりと寒かった。昨夜来の雨はまだ降り続けている。目覚ましの音に反応した犬たちが寄ってくる。犬たちを撫でる。その温かさにほっとする。
 雨は昨夜と同じ激しさで降り続いていた。溜息を漏らしながら支度をし、犬たちにレインコートを着せて外に出る。この雨ではスポーツパークにも湯川ふるさと公園にも行けない。
 犬たちもそのことを知ってか知らずか、それほど興奮することもなく淡々と用を足し、雨に濡れた地面の匂いを嗅いでいる。
 マージはここのところ便秘気味だ。そのくせ、二日に一度する便は柔らかめ。衰えた身体のことを思うと、タンパク質の量は落としたくない。かといって、あまり与えすぎると腹を下し、栄養が行き渡らないことになる。
 微妙なさじ加減を要求されているのだ。わたしがわたし以外の存在のためにこんなに気を使うようになるとは思ってもいなかった。
 早々と散歩を切り上げ、犬のご飯の支度をしている合間に、残っていた一本のトウモロコシを焼いた。今回は醤油を塗って香ばしさに挑戦してみる。
 犬たちのご飯は、昨日煮詰めすぎてしまったスープに十三穀米入りご飯、兎の骨付き粗挽き肉、すりゴマ、フリーズドライの納豆、ごま油、各種サプリ。食べてくれるかどうか心配だったが、それは杞憂だった。マージもワルテルも一粒も残さず平らげた。
 わたしはカロリーメイトを2本と、焼きトウモロコシ、牛乳の朝食。醤油味と牛乳はミスマッチだったが、それでも醤油の焦げた香りに頬を緩めながらすべてを食べた。
 トウモロコシ、また買っておこうか。今度は茹でてみるのもいい。
 今日はマージの注射の日だ。普段ならワルテルは留守番だが、朝の散歩が短かったこともあり、一緒に連れていく。雨はあがっていて、ワルテルは嬉しそうに飛び跳ねながら歩いた。その顔を見ていると、これからも連れていってやろうかと思う。軽井沢に来て、わたしはどんどん甘い飼い主になっていく。
 これまでは病院にいても楽しそうに尻尾を振り、だれかれかまわず匂いを嗅ぎまくっていたワルテルだが、前回のシャンプーで置いていかれたのが堪えたのか、警戒心に満ちた顔つきで耳を立て、あらゆる気配を見逃すまいとしていた。
「大丈夫。今日はマージの注射が終わったら、みんなで一緒に帰るぞ」
 わたしが声をかけるとワルテルの耳は下がるが、またすぐに持ち上がる。スタッフが待合室に姿を現すと、いつでも逃げられるように伏せの姿勢を取って四肢に力をこめる。
 馬鹿な子ほど可愛いというが、それは真実だ。
 病院からの帰りにマツヤに立ち寄って、数日分の食材を買い込んだ。お盆休みの始まりとあって混雑を予想していたのだが、雨のせいか、それほどのこともない。
 別荘に戻ると、マージもワルテルもあっという間に眠りに就いた。
 
雨のせいで写真が撮れなかったので、今日の日記は昔の写真を・・・。雨のせいで写真が撮れなかったので、今日の日記は昔の写真を・・・。雷が怖くて、本当は乗っちゃいけないソファで顫えるマージ。
雷が怖くて、本当は乗っちゃいけないソファで顫えるマージ。
-
友人の愛犬、4ヶ月の甲斐犬に怯えるマージ。たった一年前なのに、まだ顔が若々しい。
友人の愛犬、4ヶ月の甲斐犬に怯えるマージ。たった一年前なのに、まだ顔が若々しい。


* * *

 焼きそばを作ろうと思っていたのだが、冷蔵庫に放り込んだままだった焼きそばの賞味期限を見たら、6日前の日付が記されていた。麺自体も多少干涸らびてきつつある。 「知ったことか」
 マツヤで買ってきた野菜、ソーセージと一緒に炒めて食べる。麺に腰はなかったが、なんの問題もない。
 烏龍茶を淹れて、仕事に没入する。
 時間は覚えていないが、いつしか雨もあがっていた。しかし、それは相変わらず鉛色の雲に覆われてどんよりと低い。別荘地の木々も不機嫌そうに佇んでいる。
 朝の散歩が短かったせいか、ワルテルは3時頃から起きだして、パソコンのキーを叩くわたしの周囲をうろつきはじめた。退屈だよ。その顔はそう訴えている。
 昨日、荷物が届いていたことを思い出して、仕事をしばし中断した。ワルテル用の玩具を注文しておいたのだ。サッカーボールを模したおもちゃで、中に小さな録音モジュールがあって、自分の言葉を録音できる。モジュールに衝撃が加わると、録音した声が再生されるのだ。
 苦労して玉子型のモジュールを中から取りだし、録音する。
「ワルテル、グッドボーイ! ワルテル、ナイス・ドッグ!!」
 我ながら間抜けだなとは思ったが、なに、だれかに見られているわけではない。ちゃんと自分の声が再生されるのを確認してから、モジュールを玩具の中に戻し、マジックテープになっている止め口をしっかり締めた。ボールを床に転がす。
「ワルテル、グッドボーイ! ワルテル、ナイスドッグ!!」
 ワルテルがボールに飛びつき、じゃれはじめた。これで、しばらくは仕事の邪魔をされずに済むだろう。マージが何事かと顔をあげたが、すぐに興味を失って再び眠りの世界に入っていった。
「ワルテル、グッドボーイ! ワルテル、ナイスドッグ!!」
 自分の間抜けな声をBGMにして仕事を続ける。そのうち、声が聞こえなくなって文章を打つ手をとめる。
 ワルテルはボールを両手で押さえ込み、前歯だけを使って止め口の辺りを小刻みに噛んでいる。止め口が開いて、録音モジュールが半分顔を出していた。
「ワルテル・・・」わたしは首を振りながら腰をあげた。「犬ってのは奥歯でものを噛むものだろうが」
 ワルテルはどんな玩具を与えても(固いものは別だが)、前歯で囓り、毛や表皮を囓み契り、中に詰められている綿や何かをぼろぼろにしてしまう。子犬の頃はぬいぐるみ系の玩具をいくつも買い与えたのだが、どれも3日ともたなかった。もう大丈夫だろうと思ったのだが、わたしが甘かった。
 ワルテルの唾液でぬるぬるのモジュールをティッシュで綺麗に洗い、もう一度中に押し込む。糸で縫いつけても、ワルテルはまた同じことを繰り返すだろう。
「どうして普通に遊べないんだよ?」
 ボールを返してもらいたくてわたしを一心不乱に見つめているワルテルの頭を撫で、ボールをワルテルの手が届かないところに置いた。代わりに、骨型をした玩具を与えたが、見向きもしない。
「ワルテル、この玩具はそとで遊ぼうな」
 わたしはそういって、仕事に戻った。ワルテルが足元にやってきて腹這いになる。ずっとわたしを見つめている。仕事にならない。時間は3時半だ。あと30分仕事をしたいのだが、一度失われた集中力を取り戻すのは並大抵のことではない。
「わかったよ。雨も止んでることだし、今の内に散歩に行くか」
 待ち構えていたワルテルより先に、マージが「散歩」という言葉に反応した。熟睡していたくせに、膜のかかった目を開けて身体を顫わせる。
 わたしは苦笑しながら、散歩の支度をはじめた。

 
我が家に来たばかりのころのワルテル。今でもこうやって寝ている時がある。
我が家に来たばかりのころのワルテル。今でもこうやって寝ている時がある。
-
さすがにこういう寝方はしなくなったなあ。
さすがにこういう寝方はしなくなったなあ。


* * *

 スポーツパークのグラウンドにはテントが張られていた。芝にはパイロンが置かれ、二匹の黒いラブラドールがフリスビーを追いかけて走っている。荷室のワルテルがそれを見て唸りはじめた。
 どうやら、またフリスビー大会が行われるらしい。唸り、吠えるワルテルを叱り、しっかりとヒールさせながら(飼い主の左側をつかず離れず歩くこと)、ドッグランに入り、しっかりと扉の鍵をかける。先日、ワルテルが破壊した柵がちゃんと修復されているのを確認したばかりなのだ。また壊されたら目も当てられない。
 ワルテルのリードを放してやる。すぐに柵の方にすっ飛んでいってラブたちに吠えるのかと思ったが、ワルテルはグラウンドの方を見て唸るだけだ。わたしとマージは木のある方に歩いていった。すると、ワルテルがついてくる--というより、ワルテルはわたしのそばから離れようとしない。犬軍団にとっちめられたときの恐怖が脳に刻み込まれているのだろう。
「ワルテル、チキン野郎。臆病者」
 わたしは嗤う。ワルテルは「だって、しかたないじゃん」という顔で、わたしのそばを決して離れようとはしなかった。
 5分ほどドッグランの中をうろついていると、また、雨が降ってきた。最初は小雨だ。それが号砲がなったとでもいわんばかりに、いきなり土砂降りの雨に変わる。
 フリスビーで遊んでいたラブたちも、飼い主に誘導されて車に乗りこんだ。わたしは木が密集したあたりに犬たちを連れて、しばらく様子を見た。しかし、幾重にも茂った葉っぱの下にいても、雨粒はほんのわずかな間隙を見つけては降り注いでくる。マージは恨めしそうに空を見上げ、空気の匂いを嗅いでいた。ドッグランの地面も見る見るうちにぬかるんでいく。
「だめだな、こりゃ。まるで梅雨に逆戻りしたみたいだ。マージ、今日は諦めろ。天気がよくなったら、好きなだけ遊ばせてやるからさ」
 ドッグランから車までの距離は10メートル。そのわずかな距離を移動する間に、我々はずぶ濡れになった。
 帰り際、タオルで身体を拭いているラブの飼い主に訊いた。
「フリスビー大会は明日と明後日ですか?」
「ええ、そうですけど」
 つまり、明日、明後日はこの辺りは犬だらけになるということだ。ワルテルのことを考えると、スポーツパークで遊ばせるのはやめた方がいい。
 わたしは礼をいい、車を走らせた。
「ワルテル、明日も明後日もつまらないけど、我慢しろよ」
 そういってみたが、ワルテルはリアウィンドウに鼻を押しつけて、ケージに入れられて姿が見えないラブたちに吠えまくっていた。      

* * *

 ケーナインヘルスと馬肉、それに朝の兎の挽肉の余りを混ぜ込んで食べさせる。
 わたしはマツヤで買っておいた鶏の唐揚げをレンジで温め、キンピラゴボウを作り、炊きたてのご飯と梅干しでゆっくり晩飯を食う。
 欲求不満のワルテルと遊んでやりたいのだが、それにはこの別荘は狭すぎた。昨日と同じように床に座り、寝ているマージの横にワルテルを呼んで、念入りに愛撫してやる。ワルテルの尻尾が身体に当たっても、マージはなにも感じていないように眠り続けていた。東京のマンションでなら、牙を剥き、表情を歪めて怒り、吠えたてるのだ。しかし、ここでは安らかに眠るだけだ。たとえ、散歩が短くても。
「ワルテル、夜の散歩もおしっことウンチするだけだぞ。その代わり、こうやって可愛がってやってるんだから、怒るなよ」
 ワルテルはわたしの膝に顎を乗せ、蛙のように平べったく腹這いになって尻尾を振り続けている。
 
-
生まれたばかりのワルテル。
生まれたばかりのワルテル。
-
ワルテルと兄弟姉妹たち。
ワルテルと兄弟姉妹たち。


* * *

 夜になっても雨足は変わらない。散歩の時間になって浮き足立っていたマージだが、わたしがレインコートを出すと少し静かになった。つまらない散歩だということがわかるのだ。
 木の多いところを選びながら歩き、マージとワルテルに大便を促す。マージは二日間、大便をしていない。そろそろしたくなるはずなのだが・・・しかし、その気配はまったくなかった。元々、雨の日に用を足すのは嫌いな犬なのだ。東京でも、散々促さないとしようとはしない。
 諦めて散歩を切り上げる。夕方とは違って、きっちり雨対策を施しておいたので、マージの身体で濡れているのは尻尾だけだ。ざっと雨を拭き取り、フコイダンを飲ませ、水を与える。マージは少し飲んだだけで、横になった。このところ、飲む水の量が極端に少ない。大丈夫なのだろうか--不安が頭をよぎった。その不安を振り払いながらワルテルの身体を拭き、マージのそばにいってマッサージをしてやった。
 ワルテルがぼくにもしてくれといって、わたしの脇の下に鼻を突っこんでくる。
「ちょっと待ってろ、ワルテル」
 わたしはワルテルにステイさせて、マージの骨が浮かんだ身体を丹念に、優しく、揉み続けた。



||   top   ||