軽井沢日記
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8月13日 軽井沢 30日目

 起きてすぐ、カーテンを開けた。雨はあがっている。
 すぐに散歩の支度をして外に出た。空は相変わらず鉛色の雲に覆われている。いつ雨が降り出してもおかしくはない雰囲気だ。雨が降る前に−−車に乗って、湯川ふるさと公園に向かった。
 途中、「銀亭」というパン屋に寄って、朝飯用にクロワッサンと固クロワッサンというものを買った。
 ふるさと公園に到着したのは7時半だったが、すでに先客がいた。フリスビーを追いかけているコーギーが3頭。バセットハウンドが一頭。パピヨンが一頭。ゴールデンが一頭。いつもなら独占できる原っぱだが、飛びはね、駆け回る犬たちで狭く見えるほどだ。
 またぞろ、荷台でワルテルが吠えはじめた。せっかくここまで来たのに、これではワルテルのリードを放すことはできない。お盆休みを恨めしく思いながら、犬たちを車から降ろした。ワルテルは他の犬たちに狂ったように吠えまくっている。原っぱで遊ぶのは諦めて、奥の沢に向かうことにした。
 途中、マージが大便をした。丸二日していなかったはずなのに、量は少なめで、やはり柔らかい。
「マージ、これだけか?」
 わたしの見ていないところでしているのだろうか。余りにも量が少なすぎる。内臓になにかが起こっているのではないだろうか−−またしても不安。不安がわたしの伴侶になりつつある。しかし、わたしの不安をよそに、マージは一生懸命歩いていた。昨日の分を取り返そうとしているかのように。
 沢でしばし遊び、マージに疲れが見えたところで帰途に着いた。原っぱ脇のベンチで、コーギー一家が談笑している。ワルテルの目は常にそちらの方角に向けられていた。
「吠えたり唸ったりしなかったら、あいつらと遊べるかもしれないんだぞ、ワルテル」
 声をかけるとワルテルは耳を持ち上げる。しかし、その視線が揺らぐことはない。なにかあったら吠えようと身構えているのだ。
 溜息を漏らしながら、ともすればコーギーたちの方に向かおうとするワルテルにヒールと声をかけ、早々と車に押し込んだ。
 今日の朝ご飯はスープに十三穀米入りご飯、ししゃも、ヨーグルト、すりゴマ、オリーブオイル。ししゃもは塩で味付けしてあるが塩分は少なめだしスープの量が多いので問題はないだろうと判断した。初めて嗅ぐ匂いに、マージもワルテルも興奮している。病気のおかげで食生活が改善された。ある種の皮肉だが、しかし、マージに取ってこの数カ月は薔薇色の日々だろう。朝にはいい匂いのする魚が、夜には血の滴る肉が食卓を飾る。10年と半年の間、毎日ドッグフードばかり食べさせられてきたのだ。
 わたしは銀亭で買ってきたパンと牛乳の朝食をとった。クロワッサンも美味しいが、固クロワッサンはさらに旨かった。デニッシュとビスケットの中間のような歯ごたえで、小麦粉の味が凝縮されて感じられる。
 満足してコーヒーを淹れ、慌ただしかった朝の疲れを癒した。
 メールをチェックしたり日記を書いたり洗濯をしたり−−午前の残りの時間を慌ただしく過ごすと、すぐに昼食の時間だ。マージたちのししゃもの余りを焼き、納豆に玉子をかけ、ミニサラダを作る。
 ああ、どうしてこんなに旨いのだろう、玉子納豆かけご飯。わたしは君のために詩を書きたいぐらいだ。納豆も生卵もだめだという人に、わたしは心から同情する。
 晴れたり小雨が降ったり・・・変な天気が続いている。しかし、犬たちのためにやきもきするのはやめ、わたしは仕事に集中すべく、すべてのことを頭から締めだした。
 しかし、なぜだか集中が長く続かない。なんとか自分に活を入れようと試みたが、一時間ほどで諦めた。疲れているのだ、心も身体も。世間はお盆休みに突入したというではないか。ならばなぜ、わたしが休んではいけないのだ?
「なあ、ワルテル?」
 足元に伏せて寝ていたワルテルに声をかける。ワルテルは頭を上げ、そのとおり! というように尻尾を振った。
「よし、おれもおまえたちと一緒に昼寝するぞ」
 わたしはソファに身体を横たえ、目を閉じた。睡魔がするすると触手を伸ばしてきてわたしを捉える。わたしは即座に深い眠りに落ち、夢ひとつ見なかった。
 
今日はデジカメのバッテリが切れてしまった・・・また昔の写真。おやつ! おやつ!! おやつ!!!
おやつ! おやつ!! おやつ!!!
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もうないの?
もうないの?


* * *

 ワルテルの暖かい息が顔に降りかかって目が覚めた。
 「なんだよ、ワルテル。せっかく昼寝してるのに邪魔するなよ」
 わたしの感覚では寝てから5分しか経っていないように思えるのだ。だが、時計を見ると、しっかり2時間は眠っていた。散歩の時間が迫っている。それで、ワルテルはわたしを起こしにかかったのだ。
 雨はあがっていた。寝ぼけた頭のまま散歩の支度をはじめ、やがて、スポーツパークでフリスビー大会が行われていることを思い出した。湯川ふるさと公園に行くのも渋滞を覚悟しなければならない。
「マージ、ワルテル」溜息を漏らしながら語りかける。「今日は車には乗らないぞ。その代わり、好きなだけ歩いたり遊んだりしていいからな」
 犬たちを外に出し、敷地内を歩き回る。ここのところの雨のせいで、犬たちも諦めることに慣れてしまったのかもしれない。文句をいうこともなく、あちこちの匂いを嗅ぎ、歩き回った。
 マージとワルテルがほぼ同時にウンチの態勢を取った。どちらのウンチも半固形状だった。ワルテルはともかく、便秘後のウンチが柔らかいというのは心配だ。ウンチの始末をした後で、わたしはマージのお腹を撫でた。
「大丈夫か、マージ? 具合が悪いことはないのか?」
 マージはわたしの髪の毛の匂いを嗅ぎ、また歩き出した。外見上、変わったところは見受けられない。マージも元気いっぱいだ。単に食べ過ぎなのだろうか? あるいは雨で満足に散歩ができなかったストレスのせいか?  またもわたしは袋小路に立ち入ってしまう。考えたところで結論がでることはない。わかっていても、考えずにいられない。  20分ほどでマージの息が上がった。マージだけ別荘に戻し、わたしはワルテルと一緒に自転車に乗って別荘の周りを走り回った。ワルテルの息もやがてあがる。別荘に戻り、晩ご飯の支度だ。
 お腹の具合を考え、いつもの三分の二の量のケーナインヘルスと、馬肉も挽肉の方をケーナインヘルスと一緒に煮込んだ。
 わたしの心配をよそに、犬たちはあっという間に食い尽くし、まだ足りないとわたしの顔をじっと見つめる。わたしは彼女らの懇願を無視して、自分の食事の支度にかかる。
 みじん切りにしたタマネギをオリーブオイルで透明になるまで炒める。そこに立て四つに切ってから五ミリぐらいの幅に刻んだキュウリを投入する。本来はズッキーニを使うのだが、マツヤに売っていなかったための緊急措置だ。なに、軽井沢のキュウリは充分にうまいから問題はないだろう。
 キュウリに油が回ったら、弱火にしてからフライパンに蓋を被せ蒸し焼きにする。キュウリを蒸している間に湯を沸かし、ペンネを茹でた。茹であがったペンネをタマネギとキュウリと一緒に絡め、火を止めて、あらかじめ塩胡椒で味付けしておいた溶き卵を流し入れ、半熟状になるまでかき混ぜる。最後に塩胡椒で味付けし、パルメザンチーズをふりかけて出来上がり。
 見た目は濃厚だが、あっさりとした味のパスタができあがる。サイドディッシュにローマ近郊産のサラミをつけて、食べる。
 うまいなあ。
 洗い物を片づけてからコーヒーを淹れ、葉巻に火をつけてしばし愉悦を味わう。またぞろ眠気を感じたが、昼間、仕事をさぼったのだ。そのツケを支払わなければならない。
 一〇月に出る予定の新刊のゲラが届いていたので目を通す。小説を書くのと、書き終えた小説を推敲する作業−−どちらも辛く、苦しい。しかし、これでわたしは飯を食っているのだ。頑張らねば。
 空が揺れ、轟音が立て続けに轟いた。そういえば、今日はレイクニュータウンで花火大会が開催されているのだ。マージは眠りこけているが、ワルテルが落ち着きをなくし、だれもいない外に向かって唸り、時に吠える。
 ワルテルの唸り声は花火大会が終わるまで続いた。
 9時に仕事を終え、犬たちと外に出る。普段、夜は静かな軽井沢だが、お盆休みと花火大会のせいで空気がざわついている。若いがさつなやつらのけたたましい笑い声があちこちから聞こえる。
 ふいに、空に火花が散った。別荘の敷地内で小僧どもが馬鹿笑いしながら花火で遊んでいるのだ。花火が打ち上げられるたびにワルテルが吠え、マージが怯えた。小僧どもの下品な馬鹿笑いが聞こえるたびに、ワルテルはまた吠え、マージはますます怯える。知能指数の明らかに低い笑い声に、犬たちは本能的に怯えるのだ。だいたい、広い公園かどこかならいざしらず、周囲に他人が大勢いる貸別荘地で花火をしようなどという輩だ。あるのは肥大したエゴだけで他者への思いやりもなにもない。そんな連中がどんどん増えている。
 もともと軽井沢はそんな連中とは無縁の場所なのだが、お盆ともなればなにも考えない連中が傍若無人にやって来る。軽井沢のような場所で静かな暮らしを願う人間は、この国では今や少数派なのだ。
 すっかり怯えてしまったマージを別荘に戻し、ワルテルとしばし遊んだ。しかし、ワルテルも馬鹿な小僧たちの声と花火が気になるらしい。ときおり唸りながら、しかし、わたしのそばからは決して離れない。
「ワルテル、もう戻ろうか?」
 わたしの言葉に、ワルテルは静かに従った。
 部屋でマージにマッサージをしながら、語りかける。
「お盆休みなんてなくなればいいのにな、マージ。道は混むしわけのわからない連中が大挙して押し寄せてくるし、いいことなんかなにもないもんな」
 勝手な言い草だ。しかし、日本人が共同生活のルールやマナーを無視し続ける限り、わたしはいつだって同じ感慨を抱くだろう。頭の悪い連中が多すぎる。自分が生まれ落ちた国を嫌ってしまうのは、結局、それが理由なのだ。下品で低俗。今の日本を形容するのに、それ以外の言葉は思いつかない。馬鹿な小僧が多いのは、馬鹿な親が多いからだ。自覚とは無縁のまま、ただ浅ましく生きている。
 マッサージの最後に、マージの腹を優しくさすった。
「お腹の調子、早く元に戻そうな。おれも頑張るからな」
 マージはおざなりに尻尾を振った。眠いのだ。彼女の眠りを妨げたかったら、おやつを出すほかない。
 ぼくも、ぼくもと身体をすり寄せてくるワルテルを撫でながら、わたしは眠りに落ちていくマージを静かに見守った。  
  
だめっていわれても、ソファの上は気持ちいいのよ。
だめっていわれても、ソファの上は気持ちいいのよ。
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ワルテルに甘えられて固まっているマージ。
ワルテルに甘えられて固まっているマージ。
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生後2ヶ月ぐらいのワルテル。
生後2ヶ月ぐらいのワルテル。





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