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8月14日 軽井沢 31日目
今日も寒い。軽井沢に来てもう一ヶ月かと思いながら、散歩に行こうと急きたてる犬たちの頭を撫でる。
外に出ると、ワルテルがすかさずウンチをした。柔らかい。車に乗る前にもう一度−−今度は完全な下痢便だ。なにが悪いのだろう? しかし、わたしの心配をよそに、ワルテルは早く車に乗せてくれと飛び跳ねている。
心配は脇に置いておいて、再び、湯川ふるさと公園へ。キャッチボールをする親子の姿はあったが、犬はリードをつけられたパピヨンが一匹だけ。動きに注意を払っていれば、ワルテルのリードを外しても問題はなさそうだ。
原っぱの隅っこにいって、ワルテルのリードを外す。他の人や犬がいる場所で好き勝手にさせるわけにはいかないので、訓練をすることにする。
まずはノーリードでのヒールの訓練。常にわたしに注意を向けさせ、一緒に歩く。ふいに踵を返したり、左右に歩くコースを変えたり・・・ワルテルは戸惑いながらなんとかついてくる。それでも、子供たちの歓声やパピヨンの存在が気になるらしく、ときおりそちらに意識を持っていかれて、脚がおろそかになる。最初からすべてを要求するのは無理なので、とりあえずヒールして歩いたことを褒めてやる。
次はステイとカムだ。
「スィット(座れ)」
命じると、ワルテルは芝の上に座る。スィットとダウン(伏せ)はほぼ完璧にこなせるのだ。
「ステイ」
もう一度命じて、マージと一緒にワルテルから遠ざかる。ワルテルは一瞬腰を浮かしかけたが、わたしの視線に気づいて座り直した。
10メートルほど離れてから、「カム!」と叫ぶ。ワルテルがすっ飛んでくる。思いきり褒めてやり、もう一度「スィット」。
すると、ワルテルと一緒にマージも腰を降ろした。ワルテルだけ褒められるのが不満のようだ。自分もステイとカムをして褒めてもらいたいのだろう。
「よし、マージも久しぶりにやるか」
わたしは二匹から充分に距離を取り、また「カム!」と叫んだ。
ワルテルがすっ飛んでくる。マージはその後をよたよたと歩いてくる。先にやって来たワルテルを褒め、横に座らせた。
「ほら、ワルテル。マージ、ゆっくりだけどちゃんと来るだろう? おまえもああなるんだぞ」
やって来たマージをそれこそ、もみくちゃにするように撫で、褒めてやる。
「なあ、マージ。マージはお姉さんだもんな、ワルテルよりずっと賢いからな」
マージは嬉しそうに目を細め、胸を撫でてくれと顔をあげた。
4、5回訓練を繰り返していると、やがてワルテルの集中力が切れた。「カム」というわたしの声を無視して辺りをうろつき周り、マーキングに相応しい場所を探す。この辺が限界だろう。おしっこをし終えたワルテルにリードをつけ、原っぱを走り回った。すぐに息が上がる。膝が笑い出す。それでも、無理をして走った。昨日、一昨日と犬たちは満足な散歩をしていないのだ。今日の夕方も、敷地内での散歩でお茶を濁さなければならない。だったら、今、たくさん遊ぼう。
走り回る我々の後をマージが追いかけてくる。時に走り、時に歩く。疲れて足を止めたマージに向かって、我々は走っていく。
「マージ、今日も走ったな。マージはお婆さんになっても癌にかかっても、いつでも元気だな」
マージは笑っていた。
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ワルテルの訓練の開始! |
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マージも参加!! |
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ちょっと、ステイっていわれたのよ、あんた。 |
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マージの食事は昨日作っておいたスープ(トマト、セロリ、地元の農家が作ったという薄い緑の甘いピーマン、舞茸、煮干し)と十三穀米入りご飯、焼き鮭、ヨーグルト、すりゴマ、オリーブオイル。ワルテルは鮭を除き、量もいつもの3分の2だ。ワルテルはとっとと食い終え、まだ食べている最中のマージの周りをうろつく。
「食い足りないか。可哀想になあ。どうして下痢するんだろう? 量が多いか? でも、おまえ、こっちに来てから痩せてるんだぞ」
ワルテルはわたしの指の匂いを嗅ぎ、なめた。食べ物の匂いがついているのだろう。
わたしの食事は、昨日マツヤで買っておいた「ヒジキのおやき」だ。まあまあの味。朝飯には少なすぎる量だが、こっちへ来て膨らんでしまった胃をもとに戻す努力をしなくては。デブにはなりたくない。
* * *
そうめんを茹でて昼飯にし、洗い物を済ませてから仕事に向かう。
4時に仕事を終えて犬たちと外に出る。別荘地の中をうろつくつもりだったが、客が多くて落ち着かない。ならばと、二匹にリードをつけて敷地の外に出た。たまには普通の散歩をするのもいいだろう。
マージに歩調を合わせると、ワルテルには遅くてしかたのないはずなのだが、ワルテルは多少リードを引っ張るぐらいで、なんとか遅いペースに付き合ってくれる。リードをしていると、本当にいい子だ。リードを外すと、時々耳が聞こえなくなる。マージも同じだった。わたしの言葉に百パーセント従うようになったのは3歳ぐらいからだったろうか。
20分ほどかけてあちこち歩き回り、別荘地に戻った。敷地の中でマージのリードを外し、自分のペースで歩かせてやる。ワルテルとわたしは駆けっこだ。マージから遠ざかる方向に走り、またマージに向かった駆け戻っていく。何度もそれを繰り返していると、やっとマージが別荘に辿り着いた。
マージの足を拭き、ワルテルの足を拭く準備をしていると、急に辺りが暗くなった。そして、水の氾濫。大粒の容赦ない雨が風景を一変させ、激しい雨音がすべての音を飲みこんでいく。南国で遭遇するスコールのような土砂降りの雨だった。
「マージ、凄いな。マージの散歩が終わってから雨が降り出したぞ」
わたしはマージに囁いた。マージは雨女ならぬ雨ビッチを我が家では呼ばれている。ぐずついた天気の時にマージと散歩に出かけると、必ず雨になるのだ。逆に、ワルテルと散歩に出かけると空はなんとかもってくれる。なのに、今日はマージの散歩が終わるまで、凄まじい豪雨は待ってくれたのだ。
犬たちのご飯の支度をしていると、雷鳴が轟きはじめた。軽井沢に来てから、何度も激しい雷は経験しているが、今日のこれは桁違いだ。頭上数十メートルのところで雷雲が蠢いている−−そう感じるほど間近で轟音が轟く。空気がびりびりと顫え、壁が揺れ、地面がおののいている。
ご飯の匂いを嗅ぐと落ち着きをなくす犬たちも、恐怖に怯え、すくむだけだ。ケーナインヘルスが冷めるのを待つ間、ソファに腰をかけると、マージもワルテルもわたしのそばに寄ってきて、足に身体を押しつける。わたしは二頭の身体を抱いてやった。
「凄い雷だな、マージ、ワルテル。だけど、怖がらなくてもいいんだぞ。おれがいるだろう。マージやワルテルにいやなことがあっても、いつもおれが守ってあげてるだろう。大丈夫。おれがついてるんだ。なんにも怖くない」
マージはぶるぶると顫えている。ワルテルは忙しない呼吸を繰り返している。大自然の猛威の前では、飼い主の権威も形無しだ。
30分ほどで雷雨は過ぎ去った。窓の外を見ると、別荘地は洪水に襲われたかのようなありさまになっていた。
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雷、凄いよぉ、怖いよぉ・・・ |
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いつだって外の様子が気になるワルテル。でも、トイレシートの近くで寝てはいけません。 |
* * *
まだ恐怖の余韻は残っているようだったが、犬たちの食欲は恐怖でも抑えられなかった。下痢のせいで食事の量を減らされているワルテルは、一分ほどで食べ尽くし、マージの周りをうろつく。
わたしはゴーヤーとトマトのサラダを作り、ツルヤオリジナルの冷凍ビーフカレーを湯煎して炊きたてのご飯にかけた。
食事の後は、ゲラの手直し。犬たちの世話と家事と仕事で一日はあっという間に過ぎ去っていく。
9時半に外に出たが、ちょうどチェックインする家族と鉢合わせした。途端にマージが怯え、別荘に戻ろうとわたしに合図を送ってくる。
「大丈夫だよ、マージ。昨日の馬鹿どもはもう帰ったし、雷ももう鳴らない」
なんど説得しても、一度火のついてしまった恐怖心は収まらないらしく、マージは別荘の前で立ち止まったまま動かない。マージが嫌がっているのに無理矢理散歩をしても意味がない。マージの足を拭き、別荘に残して、わたしとワルテルは散歩の続きをした。わたしの注意が自分だけに向かっているのがわかるので、ワルテルは大喜びだった。
しかし、2度、ワルテルは下痢便をした。明日はマージの注射の日だ。また、下痢止めの薬をもらってこよう。
ワルテルと歩きながら、マージの恐怖について考えた。昼間なら、敷地内に人がいても怖がることもなく歩いているのだ。夜になって、途端に恐怖心が湧いてくるのは、マージの夜目が利かなくなってきていることが関係している。周囲が霞んでしか見えない夜の闇の中、他人の気配や声がマージには恐ろしくてたまらないのだ。東京と違って、軽井沢の夜は暗い。懐中電灯の明かりではマージの助けにはならない。
ワルテルとの散歩を終えて戻ると、マージは眠っていた。癌による病状の悪化はまだはじまっていないが、老化は容赦なく彼女を蝕んでいる。
マージをマッサージして、イネイト治療用のペンダントを回した。ワルテルも呼んで、イネイトの効果が及ぶようにする。
下痢よ治れ、癌よ消えろ、老化よ止まれ−−叶うはずのない祈りを込めながら、わたしはペンダントを回し続ける。
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