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8月15日 軽井沢 32日目
久しぶりの快晴だった。カーテンを開けると空の蒼さが眩しい。夜明け前にまた激しい雨が降ったようで地面はぐっしょりと濡れていたが、空気は乾いていた。
トイレシートにワルテルの柔らかいウンチが落ちていた。昨日、あれだけ食事の量を減らしても気配がない。今日、病院で薬をもらい、それでも改善されなければ、一度、精密検査を受けさせた方がいいのかもしれない。
外に出てすぐ、ワルテルはまた下痢便をした。見た目は元気なだけに、放っておいてもいいのかどうか、判断に苦しむところだ。
スポーツパークには、グラウンドの中央にテントがひとつ取り残されていた。強者どもが夢の跡−−この野っぱらを駆け回っていただろう犬たちの痕跡はどこにもない。
グラウンドは濡れ、ところどころがぬかるんでいた。ワルテルがずぶ濡れになるだろうことは予想できたが、そんなことはどうでもいい。
「ワルテル、さあ、二日分の鬱憤を晴らしてこい」
リードを放し、軽く尻を叩いてやると、ワルテルはグラウンドを横切ってどこまでも駆けていった。わたしとマージはゆっくり散策を楽しむ。赤とんぼがうようよ飛んでいて、夏の終わりを楽しんでいた。日なたにいれば、澄んだ空気を突き進んでくる日光は痛いほどにまばゆく、日陰に入ればそこだけ秋が来たのかと思うほどに涼しい。夏と秋がせめぎ合っているのだ。
わたしとマージは日陰を選んで歩いたが、ワルテルは関係なく走り、座り、首を掻き、また走り、座り、首を掻いている。お尻周りの毛はびしょびしょだった。下痢が続いている犬とも思えない。ワルテルが走ると水飛沫があがって、陽射しを浴びてきらきらと輝いた。
マージがばてるまで歩き回って、別荘へ。ワルテルは下痢の原因がわからないので、とりあえずドッグフードのみの朝食。マージはスープにご飯、焼き鮭、フリーズドライの納豆、大根おろし、すりゴマ、ごま油。
ワルテルははっきりと物足りなさそうな顔をしていた。
わたしはシリアル。ジャムを入れようと蓋を開けたら、黴が生えていた。軽井沢の湿度を舐めてはいけない。
少しのんびりした後で、再び犬たちを車に乗せる。まずは菊池動物病院へ。マージに注射を打ってもらいながら、ワルテルの下痢を説明する。前回の下痢とは便の様子が違うことも。とりあえず、普通の下痢止めを飲ませ、様子をみようということになった。
薬をもらい、病院を後にすると、今度は南軽井沢を目指す。友人の弁護士に紹介してもらったマンションを見に行くのだ。軽井沢に家を建てる間の拠点として使えるといい−−そんなふうに考えている。
しかし、見せてもらった部屋は素敵だったが、一階がベッドルーム、二階がリビングという間取りになっていた。ワルテルはともかく、マージはこの階段をあがれない。わたしがマージを運ぶことはできるが、連れあいには無理だろう。せめて間取りが逆なら、リビングに布団を敷いて犬たちと添い寝してもいいのだが。
もう一軒、平屋の一軒家を見せてもらった。正面に浅間山が見える絶好のロケーションで、家もいい家だったが、家賃が月二〇万。すんなり借りようとはいえない額だ。
頭を悩ませながら別荘に戻る。朝はほとんど雲のない青空だったが、あちこちに分厚い雲が浮かびはじめていた。また、夕立が降るのかもしれない。
連れあいに電話し、やはり、二〇万は出せないという結論に達する。一年間借りれば二四〇万。それだけの金額ならば、家具や何かにあてたい。我々は小金持ちにすぎない。無駄遣いができるほど家計に余裕があるわけでもない。
あれやこれやと考えながら、昼飯の支度をする。キャベツ、ニンジン、タマネギ、ピーマン、蕎麦の新芽を使って野菜炒め。味付けはジンギスカンのタレで。タンパク質がなにもないのは寂しいので、生卵をご飯にかける。余は満足じゃと呟いて箸を置く。
さあ、仕事だ。
* * *
いつものように4時に仕事を終えて散歩に行く。また、スポーツパーク。ワルテルの下痢はまだ続いている。ごはんを抜くか・・・一頭だけで飼っているのならその手もありなのだが、マージだけ食べさせてワルテルに食べさせないというのは、あまりに可哀想でやりにくい。
ああだこうだと考えながら犬たちと一緒にグラウンドを歩く。朝見た時より赤とんぼの数が増えている。秋はもうすぐそばまで来ているのだ。
30分ほどで散歩を切り上げ、別荘に戻って晩ご飯の支度をする。ケーナインヘルスに馬肉−−いつものご飯だが、ワルテルの分量はいつもの半分。病院でもらった薬とサプリを加える。
ケーナインヘルスが冷めるのを待つ間、またソファに座って煙草を吸っていると、ワルテルが脇にやってきて、ハンド(お手)をした。お腹が減ったよと訴えているのだ。朝ご飯もいつもの半量しか与えていない。下痢をして栄養もよく行き渡っていないのに、散歩ではいつもと変わらず元気に駆け回っている。そりゃ、腹も減るだろう。
「もう少しだからな、我慢して待ってろ」
やすりのようにざらついた肉球を撫でながら、わたしはそういった。
シャワーを浴び、犬たちにご飯を与える。ワルテルはあっという間に食い尽くし、マージの周りでくんくんと鼻を鳴らしている。昨日までは見られなかった光景だ。よっぽど腹が減っているのだな。可哀想に。薬が効いてくれれば、食べたいだけ食べさせてやりたいのだが。
食事を終えた犬たちを車に乗せる。イレギュラーな外出が立て続けに起こって、犬たちはかなり興奮していた。友人の別荘に向かう。お盆休みを利用して一週間こちらに滞在するというので、晩飯に招かれたのだ。わたしが世界一の料理人と思っている男の手料理を食べる−−ワルテルと同じで、わたしも空腹に涎を垂らしそうだった。
友人夫婦は牝の甲斐犬を連れてきていた。この子がお転婆で、マージとワルテルに吠え、牙を剥く。哀れ、彼女は二階に閉じこめられてしまった。ごめんな、楓。
土地の相談を小一時間ぐらいし、その後で宴がはじまった。
前菜は自家製パンチェッタとなすのしぎ焼き。刻んだエシャロットと鰹節を醤油で和えたものを茄子に乗せ、それをさらにパンチェッタで巻いて一気に口の中に放り込む。最初に茄子が吸いこんだ油、ついでパンチェッタの脂が口の中にじゅわっと広がり、悶絶する。さらに、そこにチリ産の赤ワインを流し込むとわたしはコンマ2秒ほど気絶した。
前菜でこれだ。この後はどうなってしまうのだろう。
続いて供されたのは、鴨の炭火ロースト、フォワグラとゴルゴンゾーラのソース仕立て。表面がぱりっと香ばしく、中はジューシー。おまけにソースはスープとして飲むこともできる。鴨肉を充分に噛んで赤ワインを流し込むと、今度はコンマ5秒ほど気絶した。
さらに、アワビ、マグロの赤身、中トロのカルパッチョ。この時期なのでマグロはそれほどでもなかったが(それでも充分に旨い)、煮アワビが絶品。アワビのだし汁を使ったソースも上品でまろやかで、いつまでもアワビを噛んでいたい。
ここで小休止。古いジンを飲みながら葉巻をふかす。ここで友人が「まだ早いけど、デザートと一緒にシガー吸いたいな。出しちゃおうか」と呟いた。奥さんがその言葉に応じて厨房に向かう。戻ってきた彼女が手にしていたのはマンゴープリン。ああ、わたしのなによりも好きなデザートだ。
「馳さん、このマンゴープリンに貴腐ワインを合わせてみようと思うんだけどさ」
「いい、いい、いい! それで行こう!!」
わたしはすっかりとち狂っている。丁寧に裏ごししたマンゴーで作ったプリンは滑らかで濃厚で、それを舌の上に広げて貴腐ワインを流し込む。マンゴーの甘さと貴腐ワインの甘さが混ざりあい、溶けあい、別の甘さと香りを育んで口の中に広がり、鼻から抜けていく。
わたしはまるまる3秒、気絶した。
犬たちが友人にまとわりつく。彼が犬に甘いことを心得ているのだ。
「馳さん、ワルテルが下痢してるのわかってるけど、ちょっとだけ、なにか食べさせてやってもいい? こんな顔で見つめられると、おれ、たまんないや」
わたしは気絶から醒めたばかりだったので、つい頷いてしまった。友人が出してきたのは小さな、小さな犬用のおやつ。それでも、犬たちは狂喜乱舞する。よかったな、マージ、ワルテル。でも、くれぐれも下痢はするなよ。
マンゴープリンを食い尽くし、葉巻を吸い終えると、友人は松茸ご飯を炊くといって、また厨房に立った。ご飯が炊きあがるまでには時間がかかる。わたしは居間のマッサージチェアを独占して、悦楽に浸った。
「ご飯、炊けたよ」
肩を揺すられて、自分が眠り呆けていたことに気づいた。旨い食事とワイン、楽しい会話と葉巻、それにマッサージチェア。寝るなという方が無理だ。
お腹は一杯だったが、松茸の香りがわたしを誘惑する。おかずは仙台牛の焼肉だ。いくらなんでもこれは食えないと思ったが、しかし、気がつくとわたしは完食していた。胃はパンパンだ。もう食えない。もう動けない。
そのまままったりとしたまま酔いが醒めるのを待った。友人の別荘を辞去したのは午前0時。貸別荘の敷地で犬たちを歩かせ、犬たちの足を拭き、顔を洗うのも歯を磨くのも面倒くさくて、わたしはそのままベッドに倒れ込んだ。
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友人の別荘にて。 |
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いい匂いがするなあ、ぼくのご飯かなあ・・・ |
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まずは前菜。自家製パンチェッタとなすのしぎ焼き。 |
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この厨房で絶品料理が生まれる。 |
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鴨の炭火ロースト、フォワグラとゴルゴンゾーラのソース。 |
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煮アワビ、マグロの赤身、中トロのカルパッチョ。 |
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ねえ、もっとおやつちょうだい。 |
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至福のマンゴープリン。 |
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とどめの松茸ご飯、仙台牛の焼肉。 |
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