軽井沢日記
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8月16日 軽井沢 33日目

 目覚ましが鳴ったが、目が開かない。手探りで目覚ましを止め、寝返りを打とうとしたら顔に熱い息がかかった。なんとか目を開けると、マージとワルテルの顔がすぐ目の前にある。
「わかったよ」
 唸り、転がり落ちるようにベッドから出た。今日も快晴だ。だらだらしながら散歩の支度をしていると、マージとワルテルが早く、早くとわたしをせっつく。
 スポーツパークに行くと、先客がいた。フレンチブルドッグだ。ワルテルはいつものように荷室から派手に吠えたてた。
 犬たちをおろすと、フレンチブルのお父さんとお母さんが近寄ってきた。
「一緒に遊んでも大丈夫ですか?」
 わたしは首を捻った。さて、ワルテルよ、どうする?
 リードをつけたまま、ワルテルとフレンチブルに挨拶をさせる。ワルテルは吠えるのをやめた。目を輝かせてフレンチブルを見つめている。これなら大丈夫そうだ。
 ワルテルもフレンチブルもリードを外してもらった。その途端、追いかけっこがはじまる。フレンチブルが逃げ、ワルテルが追いかける。他の犬とこうやって遊ぶのは、ワルテルには初めての体験だ。目を輝かせ、涎を垂らし、フレンチブルを追いかけ続ける。
 最初は二頭の戯れをじっと見つめていたマージが、目の前をフレンチブルが駆けていった時、一緒に走り出した。ワルテルと一緒にフレンチブルを追いかけようとして腰を抜かしたように倒れ、しかし、すぐに起きあがって、また遊びに参加しようとする。
「マージ、無理するなよ。脚、痛くするぞ」
 わたしの声はマージの耳を素通りするだけだ。とうの昔に忘れてしまった本能を刺激されて、懸命にフレンチブルを追おうとする。気持ちに身体が追いつかないのは哀れだが、しかし、そんなマージを見ていると、胸が張り裂けそうになった。
 マージがこうやって他の犬と遊ぶのはほとんど7年ぶりだ。昔、マージにはマロンという子分がいた。ちょっと年上の牡のバーニーズだが、気の優しい子でマージのわがままにも嫌な顔ひとつ見せずに付き合ってくれた。そのマロンが急病で死んだのが4歳の時。マロンがこの世を去ってから、マージの遊び相手はわたしただひとりだったのだ。そうなったのは、ひとえにわたしの人嫌いにある。他人と関わり合いになるのが好きではないのだ。
 だから、公園にマージを連れていっても、他の犬たちの輪には加わらない。マージが興味を示しても、公園の隅の方に連れていって、わたしと遊ばせた。そのうち、マージは他の犬に興味を示さなくなり、わたしと自分だけの狭い世界に安住するようになったのだ。
 遊びたかったんだろうな−−わたしは思う。他の犬とたくさん遊びたかったんだろう。だけど、おまえはおれに付き合ってくれたんだよな。おれのために、自分の望みを抑えてくれたんだよな。
 遊べ、遊べ、マージ。脚を痛めたら、おれがおまえを抱いて散歩に行ってやる。おしっこやウンチを垂れ流すようになっても、おれが全部面倒見てやる。だから、好きなだけ遊べ、マージ。
 犬たちの追いかけっこは結局、5分ぐらいで終わっただろうか。フレンチブル君がくたびれてしまったのだ。それはそうだろう。体格が違う、歩幅が違う。ワルテルと遊ぶために、彼は(彼女かな?)倍以上の体力を必要とするのだ。
 荒れた呼吸を整えているフレンチブルにありがとうと告げて、わたしは犬たちをドッグランの外に出した。グラウンドに移動して歩きはじめる。しかし、くたびれていたのはマージもワルテルも同じだった。少し歩いては立ち止まり、車の方を見る。
「疲れたよな、マージ。もう帰るか?」
 帰るという言葉に、ワルテルが微妙な反応を示してわたしから少しずつ遠ざかっていく。
「まだ遊び足りないか、ワルテル?」
 ワルテルはさっと踵を返し、グラウンドの中央に向かって走っていった。
「ワルテル!」
 帰りたくなくて逃げたのかと思って追いかけたが、ワルテルは途中で中腰になり、ウンチをした。また、下痢便だ。もう一日、二日様子を見て、下痢が止まらないようなら、精密検査をしてもらうべきかもしれない。毎月、フィラリアの薬を飲ませているのだから、虫がいるとは思えない。夏ばてとも思えないのだ。
 ウンチをし終えると、ワルテルは素直に車に向かった。
 旧軽に立ち寄って、フランスベーカリーで昼飯用の菓子パンを買う−−ベーコントルティーヤ、ピロシキ、ミートパイ。フランスベーカリーのお母さんに挨拶して、別荘に戻った。
 マージにはスープとご飯、馬の挽肉、すりゴマ、ヨーグルト、犬用のふりかけを。ワルテルには昨日、菊池動物病院でもらった整腸作用があるというドッグフードを与えてみた。もちろん、薬にサプリもだ。
「これで、治ってくれよ、ワルテル。変な病気、嫌だぞ」
 ワルテルはもっとご飯をくれといいたげに、おざなりに尻尾を振った。
 わたしはシリアルを食べ、洗濯物が溜まっていたので洗濯をした。洗濯が終わるのをまちながらメールをチェックし、日記を書く。もう一度ベッドに横たわりたいという誘惑と戦いつづけた。

まずはご挨拶から・・・
まずはご挨拶から・・・
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追いかけっこのはじまり!
追いかけっこのはじまり!
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マージも必死で参加する。
マージも必死で参加する。


* * *

 フランスベーカリーの菓子パンと林檎ジュースの昼食を取り(ああ、ピロシキ最高!)、仕事に埋没する。3時半前後にワルテルが起きだし、部屋の中をうろついてわたしの集中力を奪っていく。それでもなんとか頑張ってはみた。ちきしょう、調子良かったのに・・・。
 4時に仕事を切り上げ、またスポーツパークへ。ワルテルのウンチは下痢とまではいわないが、まだゆるゆるだ。太陽は雲に遮られて快適な空気が大地を覆っている。しかし、朝のフレンチブルとの遊びが堪えたのか、マージはあまり歩きたがらない。
 いや、認めよう。ここ数日、マージの体力ははっきりと落ちつつあるのだ。軽井沢に来た当初はよたよたとではあっても、体力の続く限り野っぱらを歩き回っていた。だが、この一週間は歩くことより立ち止まっていることの方が多い。わたしが呼べば歩いてくるが、もう車に戻って帰りたいという意志がその痩せ細った横顔に刻み込まれている。わたしがもう少し遊ぼうというから、我慢して付き合っているのだ。
 毎日、旺盛な食欲を示してはいるが、それでも日に日に痩せていく。脾臓に転移したという悪性腫瘍が、マージの身体を徐々に冒していっているのかもしれない。
 9月になったら、一度東京に戻って、内臓や肺の精密検査をしてもらおうか。
 マージが逝ってしまうことの覚悟はできている。ただ、苦しませずに、穏やかに逝かせてやりたい。
 結局、散歩は20分ほどで切り上げた。わたしの「帰るぞ」という言葉に素直に従うワルテルの頭を撫でながら車に乗りこむ。マージはすぐに眠ってしまった。ほんのわずかな運動でも、体力を著しく消費してしまうのだ。
 わたしはカーオーディオにブルーハーツのCDを突っ込み、鼻歌をうたいながら車を運転した。
 40歳を過ぎても、彼らの歌には元気づけられる。20代の時と違って、照れくささを伴ってしまうのが悲しいが。


* * *

 ケーナインヘルスと馬肉のいつもの食事を用意する。夕方、注文してあった「森のサプリ」というサプリを試しに使ってみる。真っ黒な炭のようなサプリだが、整腸作用があるというので買ってみたのだ。販売元のウェブサイトには「効果がなければ返金します」という自信に満ち溢れたコメントが書かれていた。
 シャワーを浴び、犬たちに食事を与えて出かける準備をする。今日もまた、清水夫妻と食事に行く約束をしてあったのだ。
 6時半に清水さんが迎えに来る。犬たちは浮き足立ち、ついで留守番をしなければならないのだと知って肩を落とした。
「今日はご飯食べたらすぐに帰ってくるからな。いい子でお留守番してろよ」
 マージとワルテルにそう告げて出発する。「弁慶」という居酒屋だ。だが、ハイシーズンは混みすぎるので品数を減らしてあるらしい。メニューにあるのは揚げ物ばかり。しかたがないのであるものを食べ、最後に蕎麦を啜っていたら「8時が過ぎましたので、通常のメニューもご利用頂けます」といわれた。食べたくない物を無理矢理食べ、もう、お腹は一杯だ。
 清水さんが恐縮することしかり。いいよ、こういうこともあるさ。一善君は相変わらず、赤ん坊らしくなく泣き声もあげずに自分の世界に浸っていた。
 口直しにもう一軒行きましょうかという清水さんに断りを入れ、別荘まで送ってもらう。ワルテルのお腹の具合が心配だった。
 別荘に戻る途中、雨が降りはじめた。喜んでお迎えをしてくれる犬たちを愛撫し、明日のためのスープを作りながら雨の止むのを待った。
 しかし、その気配はまったくない。犬たちにレインコートを着せ、思い切って外に出る。マージはおしっこを済ませると、後は動かなくなった。恐怖と疲れが彼女を金縛りにしているかのようだ。
「マージ、ワルテルがウンチするまで待ってくれな」
 仁王立ちして鼻をうごめかせているマージを残し、わたしはワルテルを連れて敷地内をうろつく。しかし、どれだけ歩き回っても、ワルテルは用を足そうとはしなかった。
「下痢、治ったのかな、ワルテル。良かったな」
 待ちくたびれていたマージに謝って、散歩を終わらせた。
 すぐに眠りに就くマージの頭上でイネイトのペンダントを回し、赤ワインを開け、葉巻に火をつける。
 マージは死体のように、ぴくりとも動かずに眠り続けている。そのまま逝ってしまうのではないかと思えて、わたしは泣きたくなった。酔っていることは自覚していた。
「置いていかないでくれよ、マージ」
 わたしは呟いたが、マージの眠りは深く、わたしの声は宙に浮いたまま、やがて雨の音にまぎれて消えてしまった。  


この日記を読んだワルテルの兄弟たちから挨拶メールが来ました。名古屋のキャプテン君。
名古屋のキャプテン君。
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こちらもキャプテン。一緒にいるのは友達。
こちらもキャプテン。一緒にいるのは友達。
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浜松のグラン君。
浜松のグラン君。
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ワルテルはこんなふうにはお腹見せない。兄弟でも性格は違うんだね。
ワルテルはこんなふうにはお腹見せない。兄弟でも性格は違うんだね。





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