軽井沢日記
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8月17日 軽井沢 34日目

 連日の酒のせいで身体が重い。わかっていても、一度飲みはじめたら止まらない。これでも、昔みたいな無茶飲みはしてないんだからと自分をごまかし、杯を重ねてしまう。
 もっと寝ていたかった。しかし、犬たちの散歩を期待する熱く忙しない呼吸音が聞こえてくる。
 唸りながら目を開けた。雨は一晩降り続けたようだったが、雨雲は朝の到来とともに去り、太陽が燦々と照っている。
 トイレシートの上に、真っ黒なウンチがてんこ盛りになっていた。「森のサプリ」のせいで、黒くなっているのだ。少し柔らかい。まだ、ワルテルのお腹は本調子ではない。
 スポーツパークへ。昨日のフレンチブルはいなかった。喜び勇んで車から飛び降りたワルテルが、フレンチブルの姿を求めてきょろきょろしている。
 陽射しは目に痛いほどだが、空気はしっとりと冷えている。絶好の散歩日和だが、マージは用を足し終えると、また足を止めた。表情は穏やかだが、じっと一箇所にとどまって、駆け回るワルテルや写真を撮るわたしを見つめている。呼べばとことこと近寄ってくるが、わたしの傍らで足を止めてしまう。
「身体、きついのか、マージ?」
 わたしはしゃがみ、マージの胸を撫でながら訊く。もちろん、答えは返ってこない。マージは荒い息を繰り返しながら、気持ちよさそうに目を細めるだけだ。
「じゃあ、こうやってひなたぼっこしてような。おれ、ちょっとワルテルと遊んでやらなきゃならないけど、怒ったりしないだろう?」
 マージはただ微笑んでいる。身体が動かなくても、風の匂いと陽射しを満喫しているように見えた。
 ワルテルはまたウンチをした。下痢便だ。これはいよいよ、検査をしてもらった方がいいのかもしれない。
 ワルテルと追いかけっこをし、またマージのところに戻る。そんなことを繰り返して、朝の散歩を終えた。
 途中、コンビニに立ち寄って新聞と牛乳を買う。先日まで、朝のコンビニの駐車場は車で一杯だったのだが、今日は2台しか停まっていない。新聞もいつも売り切れだったのに、今日はごっそり残っている。お盆休みは終わりつつあるのだ。まだ、休みの時期をずらした観光客が大勢いるが、それもあと一週間のことだろう。また、静かな軽井沢が戻ってくる。マージもワルテルも、周りに気兼ねせずに遊べるようになる。
 夜の散歩の、マージの恐怖が少しでも薄れる。それがなによりも待ち遠しい。
 昨日作ったスープに十三穀米入りご飯。馬の挽肉、キュウリとゴーヤーのみじん切り、すりゴマ、しその実油、各種サプリ。ワルテルの量は少なめに。ワルテルの切なそうな仕種がわたしの胸を締めつける。
 わたしはシリアルの朝食を摂って、仕事の準備をはじめた。


* * *

 10時にマツヤに買い出しにでかけ、昼前に、買ってきた「助六寿司」セットで昼食を摂る。今日は夕方から「愛犬の友」という雑誌の取材を受けなければならない。仕事もいつもよりギアを高めに入れて頑張らねば。
 3時半に仕事を終え、流しにたまった食器を洗っていると、4時ちょうどに「愛犬の友」の編集者とカメラマンがやって来た。心配していた天気は保ちそうだったが、雲のせいで辺りは暗い。明るい内にということで、まずはスポーツパークへ行って写真を撮ることにする。
 写真を撮る、と簡単にいうが、犬の写真を撮るのは簡単な作業ではない。わたしのような素人が気ままに撮る分にはそれほど問題はないが、編集者やデザイナーが意図する写真を撮ろうと思ったら、それは難事業になる。
 マージは若い頃はカメラ目線の犬だった。どんな時でもカメラを見る。横顔を撮りたくてそっとカメラを構えても、気配に気づいて正面を向いてしまうのだ。しかし、ここ1、2年、マージはカメラが苦手になってしまった。視力の衰えと無関係ではないと思うのだが、フラッシュが苦手になったようなのだ。
 だから、この日もカメラマンや編集者があの手この手を使ってマージの気を引き、カメラの方を向かせようとするのだが、うまくいかない。
 ワルテルに至っては、集中力が3分しか保たない。なんとか苦労してカメラマンが意図する位置に立たせても座らせても、フィルムを取り替えるその好きに「ねえ、ねえ、なにしてんの?」とカメラマンの匂いを嗅ぎにいく。あるいは、マージの撮影を待っている間に退屈に耐えかねて、下がぬかるんでいる草の上で伏せ、身体をくねらせる。遊びたい盛りだからしかたがない。
 スポーツパークでの撮影を終え、別荘に戻って、また写真撮影。カメラマンが機材の準備をしている間に、編集者からのインタビューを、別荘の外にある野外用のテーブルで受ける。マージとワルテルは退屈を持て余して、地面の上に寝っ転がる。ワルテルは草を噛み、土を食べ、胸の白いふさふさの毛を枯れ葉と土まみれにさせてしまった。
 後で綺麗にするの、大変なのになぁ−−落胆しながら、それでもわたしは笑顔でインタビューに答え続けた。
 
 
マージがよたよたと・・・
マージがよたよたと・・・
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一歩一歩確実に・・・
一歩一歩確実に・・・
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わたしの方に歩いてくる。
わたしの方に歩いてくる。
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やっと辿り着いたマージをワルテルが出迎える。
やっと辿り着いたマージをワルテルが出迎える。
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いつの間にか、ちゃんとした群れになってるんだなあ。
いつの間にか、ちゃんとした群れになってるんだなあ。
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走れ、走れ、走れ!!
走れ、走れ、走れ!!
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写真撮影のためのポーズ(?)を取っている二頭。
写真撮影のためのポーズ(?)を取っている二頭。


 写真撮影、インタビューのすべてが終わったのは6時過ぎ。走らせたり歩かせたりしたわけではないのだが、さすがにマージは疲れているようだった。
 大慌てで晩ご飯の支度をする。ケーナインヘルスを煮て、馬肉を一口大に切って、各種サプリの用意をして−−当然、犬たちは晩飯の時間がとっくに過ぎていること心得ている。うるさいことこの上ない。ケーナインヘルスが冷めるのを待つ間、鼻でわたしの脚をつついたり、お手をしたり、果てには教えてもいないチンチンをしたり(これはワルテル)、かしましい。
 まだ熱いかと思ったが、その勢いにおされて食事を与えてやる。熱いものが苦手なはずなのだが、そんなことはお構いなしに、二匹とも10日は胃になにも入れていないという勢いでがっついていく。
 その姿を見ていると、わたしも激しい空腹を覚えた。ご飯が炊きあがるのを待って、犬用の肉と一緒に注文しておいたジンギスカン用のラム肉を、野菜と一緒に炒める。最後に、ジンギスカンのタレで煮絡め、炊きたてのご飯の上にかける。
 ジンギスカン丼のできあがり。
 熱々のところをふうふういいながら、犬たちと同じようにかき込む。胃に悪いことは承知でも、これが丼の食い方だ、文句あるかというところ。
 食事を終え、食器を洗い、お茶を淹れてまったりしていると、テレビで日本対イラン戦がはじまった。ただの消化試合を視聴率のために盛り上げようと異様な演出を企てるテレビと、それに踊った満員のサポーターを見て溜息が出る。
 一位通過? 雪辱戦?
 勝負は勝ったり負けたりするもの。一位であろうが二位であろうが、W杯には関係ない。一位ならシードされるというならともかく。
 あほらしい−−ソファに横になって試合を観戦している内に、眠気が襲ってきた。それに抗う理由はない。わたしは睡魔に身も心も委ねた。
 

* * *

 電話のベルで起こされた。テレビを見ると、ちょうど試合が終わったところだった。スコアは2−1。予定調和といったところか。
 電話は連れあいからだった。マージの体調を心配する彼女に、ここ最近のマージの様子を教えてやる。さらに土地のこと、家のことを話し、電話を切ったのは一〇時半。マージもワルテルもわたしの足元に座って、散歩に出かける時を今か今かと待っている。
「待たせたな。行こうか」
 喜び、踊り、わけもなく駆け回る犬たちを玄関に誘導して外に出る。
 ワルテルは少なめの量の、しかしはっきりとした形のウンチをした。まだ少し柔らかいが体調は上向いているようだ。
 マージも体調はいいようで、わたしとワルテルの後をてけてけとついてくる。ただし、懐中電灯と別荘の前に立てられている照明の明かりが届く範囲に限ってだ。少しでも暗い方に移動しようとすると、マージは立ち止まって途方に暮れた顔をする。
「マージ、そこで待ってろ。ワルテル、駆けっこするぞ」
 わたしはマージをその場に残して、ワルテルと走った。マージとの距離が少しあいたところでUターンする。
「ワルテル、マージのところに戻るぞ。さあ、走れ」
 わたしとワルテルが駆け戻ってくると、マージはゆさゆさと尻尾を振った。
「マージ、無理しなくていいからな。自分のペースでいろよ。暗闇が怖かった、近づかなきゃいい。おれとワルテルはいつもマージのこと見てるからな」
 マージの頭を撫で、またワルテルと走った。走り去ってはマージのところに駆け戻り、何度も同じことを繰り返す。
 やがて、わたしの息はすっかりあがり、脚が言うことを聞かなくなった。
「そろそろいいか?」
 ワルテルに訊ねる。ワルテルも息を荒げて、尻尾を振った。満足したよ−−そういっているのだと勝手に決めつけて、マージと一緒に別荘に戻った。マージもワルテルもわたしも、ぜーぜーはーはー、部屋の温度が一気に上がったような錯覚さえ覚える。
 我々はそれぞれの満足を抱えて、今日のスケジュールを終了した。





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