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8月18日 軽井沢 35日目
昨日までの朝とは打って変わって、雲が空一面を覆っていた。その分、気温も低い。
いつものようにスポーツパークに向かったが、マージも気温の低下を受けて元気を取り戻しているようだった。
今日の散歩には例のわたしの声が出るサッカーボールを持参した。ワルテルは散歩の初手からそれが気になって気になって、歩くというより飛び跳ねていた。
スポーツパークのグラウンドでリードを放し、「フェッチ!(取ってこい)」と声をかけながらボールを投げる。ワルテルは待ちきれなかったといわんばかりに駆けだし、ボールとたわむれる。まだフェッチの意味も理解していない。たまにボールを加えて戻ってくると、毛がぐしゃぐしゃになるまで撫で、褒めてやる。こうして遊んでいるうちに、フェッチの意味を覚えてくれればいい。
ボールを使ってワルテルを遊ばせている間、わたしとマージはゆっくりグラウンドを歩く。昨日の夜の駆けっこでくたびれていたわたしにも、これはいい散歩の方法だ。
ワルテルのウンチは若干ゆるめだったが、形はしっかりしていた。回復に向かっているのは間違いない。「森のサプリ」の影響か、マージもワルテルもそれほど草を食べる素振りを見せなかった。
30分ほどそうやって遊んでいると、突然、グラウンドと接した離山通りの方から、ぎょえっ! ぎょえっ! ぎょえっ!! という大きな声が聞こえてきた。ワルテルがボール遊びを忘れてフェンスの方に全速力で駆けていく。猫が喧嘩をしているのかと思ったが、尋常な鳴き方ではない。
なんだろうと思って行ってみると、離山通りの歩道を3匹の猿がもの凄い勢いで駆けていた。その後ろから牝猿やら子猿やらが押っ取り刀でついてくる。
犬猿の仲という言葉がよぎり、慌ててワルテルを呼び戻した。猿たちに興味を示しながら、しかし、その物々しい雰囲気に怖じ気づいたのか、ワルテルは素直に戻ってくる。
ワルテルのリードを繋いでいると、何匹かの猿が、フェンスをよじ登ってスポーツパークの敷地内に入ってきた。どれも牝と子猿で、敵意は見受けられない。しかし、子供を連れている牝が危険なのは考えるまでもない。
わたしはマージとワルテルを急きたてて、車に乗りこんだ。
猿がいる、猿が出るとは聞いていたが、こんな人里まで降りてくるのか。
「そういえば、マージは猿と仲がいいんだよな」
エンジンをかけながら、わたしはマージに語りかけた。
あれは何年前になるだろう。だれかに飼われていたと思われる猿が東京のあちこちに出没するというニュースが巷を賑わしていた。猿の出没地点は、徐々に我々の住んでいる街に近づいていたのだが、わたしは気にも留めていなかった。
ある日の夕方、マージと一緒に散歩に出、近くのスーパーに向かった。マージを電柱にくくりつけ、スーパーで買い物を済ませて出てくると、マージの周囲に人だかりができていた。車に轢かれたのか? 咄嗟にそう思い、人ごみをかき分けると、マージの背中に猿が乗ってグルーミングをしていた。マージは困ったような顔をして、わたしを見つけると猿をなんとかしてくれと力なく尻尾を振った。
最初は自分の目に映っているものをうまく飲みこむことができなかったが、そのうち猿のニュースのことを思い出した。あの猿がマージの背中に乗っているのだ。
我に返ってマージに近寄ると、猿は電柱を駆けのぼって民家の屋根に飛び移り、瞬く間に姿を消した。
「マージ、大丈夫だったか? いやなら吠えるか唸るかしろよ。そうすりゃ、猿だって逃げたのに」
マージに怪我のないことを確かめ、リードを電柱から外してやると、近所の花屋のおばさんが口を開いた。
「あの猿、ワンちゃんと一緒に暮らしてたらしくて、犬が大好きみたいなのよ」
この辺りに猿が出没するのはもう、近所の話題になっていたのだ。
わたしはいつもの散歩のコースを変えて家に向かった。几帳面な仕種でマージの毛繕いをする猿の姿と、途方に暮れた顔で猿を背中に乗せているマージの姿が脳裏に焼きつき、なんだかそれがあまりにおかしくて、笑いの発作に襲われたのだ。
「猿が背中に乗ってたんだぞ、マージ」
わたしは笑った。腹の底から笑った。
「犬猿の仲なんだろう? なんとかしろよ」
わたしは笑い続けた。わたしが楽しんでいるのが嬉しいのか、マージは尻尾を振って胸を張った。わたしは家に帰り着くまで笑い続け、すれ違う人々の奇異の視線を浴びまくったのだ。
その時のことを思いだし、わたしはまた笑いの発作に襲われた。マージは奇妙な顔でわたしを見つめ、ワルテルは自分も楽しいと尻尾を振っていた。
「マージは猿と仲がいいんだよな」
わたしはもう一度いった。マージはふんと鼻息をもらし、わたしから顔を背けた。
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この日なたと日陰の境目が一番気持ちいいのよ。 |
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でも、日なたでも今日は風が気持ちいいわね。 |
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ちょっと熱いけど、日光浴びなきゃな。 |
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痒いぞー、転がるぞー。 |
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ごろんごろんしてると気持ちいいぞー。 |
* * *
作り置きのスープに十三穀米入りご飯。タンパク質は豆腐半丁に昨日のわたしの食べきれなかった羊肉少々。ヨーグルト、すりゴマ、赤キャベツの新芽、大葉のみじん切り、しその実油。
いつもと変わらぬ調子で犬たちは朝食を終えた。わたしはシリアルにヨーグルト。
10時になるのを待って、旧軽に自転車で向かう。ある人に不動産屋を紹介されたので、会いに行くのだ。アロー建設の清水さんに任せるつもりではいるのだが、その不動産屋さんがバーニーズを飼っているというのを聞いて、会ってみる気になった。
わたしの希望を伝え、3つの物件を紹介してもらう。実際、現地に見に行ってもみたが、どれも一長一短だった。値段的にはかなり得だが、造成がまったくされておらず、それを考えると割高になる。あるいは、周囲の雰囲気はいいのだが、隣近所にみすぼらしい家が建っている。あるいは土地が狭すぎる。
結局、清水さんに紹介してもらったふたつの土地より気に入るところはない。
別荘に戻る途中、友人から美味しいといわれていた台湾料理の「萬里」に立ち寄り排骨麺を食べる。あっさりした醤油味のスープで、ロース肉も旨い。汗をかきながら完食し、満足して勘定を支払う。
別荘に戻ると、トイレシートの上に、また柔らかい便が乗っていた。シートを微妙に外してオシッコも。溜息をつきながら後始末をし、汚れた下敷きのシートを洗濯した。
* * *
4時に仕事を切り上げ、スポーツパークへ。猿たちの姿はなかった。半袖のシャツ一枚だけでは肌寒い空気の中で犬たちと遊ぶ。ワルテルはボールで。わたしとマージはゆったりとした追い駆けっこ−−わたしが先を歩き、距離があいたところで振り返り、しゃがむ。すると、マージは一生懸命歩いてくる。わたしのそばに行けば撫でてもらえる、褒めてもらえる。それを期待して、老骨に鞭打ちながら歩いてくる。
マージを撫でているとワルテルがやって来て、鼻でわたしの腕を突きあげる。ぼくも撫でて!
わかったよ。頭をくしゃくしゃにしてやると、ワルテルは嬉しそうに大きく身震いして、またボールの方に走っていく。ワルテルは大量のウンチをした。まだ柔らかいが、形ははっきりしている。このままいい方向に向かってくれればいいのだが。
マージがお疲れになったところで散歩を切り上げる。散歩の時間はおよそ20分。このところ、だいたい同じだ。ボールを追いかけて走り回ったワルテルも不満を見せずに車に乗る。しばらくはワルテルにこの時間内で我慢してもらうしかない。日曜になったら姪が来るから、ワルテルの遊びに付き合わせるか。小学校一年生の女の子と一歳の牡犬はいい組み合わせになるかもしれない。
ケーナインヘルスと馬肉、各種サプリの晩ご飯はいつものようにあっという間に姿を消した。
わたしは軽井沢産のパンチェッタを使ってカルボナーラを作った。しかし、電気コンロは火加減が難しい。今日の料理は失敗だった。激しく落胆する。
プロじゃないんだから、頭で思い描いた味にならなくたってだれも気にしはしないって−−自分を慰めながら、新しい小説のゲラをチェックする。よく考えたら、昨日の夜は寝ている場合ではなかったのだ。このゲラのことをすっかり失念していた。
10時までゲラと格闘して、犬たちと夜の散歩に出かける。マージはまた、用を足すとすぐに部屋に戻りたがった。いいだろう。朝と夕方、くたくたになるまで歩いているのだ。マージの足を拭き、留守番を任せて、わたしは自転車に乗ってワルテルと一緒に別荘地を出た。ゆっくりのんびりペダルを漕ぎながらワルテルと冷えた夜気を満喫する。ワルテルはわたしを独占できて、嬉しそうに早駆けしていた。
15分ほどで散歩を切り上げ、メールをチェックすると、インターネットで知り合ったバーニーズ飼い仲間の奥方からメールが来ていた。明日から2泊、同じバーニーズ飼いの仲間と軽井沢に遊びに来るのだ。メールには、土曜日に挨拶に来るとしたためてあった。
「マージ、ワルテル、土曜日にバーニーズが2頭とグレートデンが2頭、それにちっちゃいのが2頭、遊びに来るぞ」
マージは深い眠りの中、ワルテルはわたしを見上げて尻尾を振った。
「ワルテル、吠えたりするなよ。向こうの牡のバーニーズとデンはおっかないらしいぞ」
ワルテルはなんのことかわからないくせに、ただわたしに声をかけられたことが嬉しくて尻尾を振り続けていた。
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ねえ、なにしてんの?
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