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8月20日 軽井沢 37日目
他の犬たちと遊ぶワルテルを見たいといっていた連れあいだが、目覚ましが鳴っても起きる気配を見せなかった。わたしは連れあいと友人を起こさないように気を配りながら散歩の支度をし、別荘を出た。夜の間にまた雨が降ったようで、地面も木々も濡れそぼっている。ワルテルがトイレシートにウンチを残していた。たっぷりの量の、やはり柔らかい便だ。わたしが散歩の支度をしている間に、今度は下痢便をした。うーん。そういえば、昨日、連れあいにおやつをもらっていたよなあ。あれが良くなかったかなあ。
スポーツパークへ向かうと、すでにみくに家とベントン家が駐車場で我々を待っていた。ワルテルがそれに気づいて、荷室から勢いよく吠えたてる。だが、車から降ろすと、犬軍団の中の雄バーニーズと二頭のグレートデーンのあまりの大きさに震えあがった。
みくに家の犬はグレートデーンのさきとカルロ、バーニーズのはな、そしてシーズーのペロ。
ベントン家はバーニーズのベントン、アメリカンコッカースパニエルのルビ。
総勢6頭、総体重200キロ超の大軍団だ。マージはすぐに彼らと匂い嗅ぎの挨拶を交わしたが、ワルテルはわたしの後ろに隠れて怯えている。我々人間も初対面の挨拶を交わし、犬たちをドッグランの中に誘導した。
ワルテルのリードを外す。ワルテルはおそるおそる、犬軍団の匂いを嗅ぎにいく。しかし、カルロのリードが外された次の瞬間、ワルテルにとっての地獄(笑)がはじまった。
カルロはワルテルより一ヶ月若い牡犬だが、その体格、体重はワルテルの2倍はある。巨犬だが、中身はまだまだ子供だ。そのカルロがワルテルに追い駆けっこを挑んだのだ。
ワルテルは文字通り、脱兎のごとく逃げ出した。ドッグランの木々を縫い、後ろを振り返り、巨犬がまだ自分を追いかけてくると知ってスピードをあげる。
「ワルテル、なんでもいいけど、もう柵壊すなよ」
わたしは笑いをこらえながら叫んだ。逃げまどうワルテルの頭の皮膚は頭蓋骨にぺったり張りつき、耳もすっかり垂れ下がっている。
やがて、ワルテルは走りながら「ひーん」という情けない泣き声を漏らした。それを聞いたカルロのお父さんがカルロを呼び戻す。カルロは素直にそれに従って、我々の元に戻ってきた。ワルテルはドッグランの奥の方でこちらの様子を伺うだけで、戻ってこようとはしない。
人間と犬たちとで和みながら談笑していると、ワルテルが吠えた。
ワンワンワン−−こっちに来てよ。怖いよ、寂しいよ。明らかに敵意ではなく助けを求める吠え方だった。
「ワルテル、カム! こっちにおいで」
わたしが呼ぶと、5メートルほど近寄ってくるが、その先には進めないのだった。わたしはまた笑いマージのかたわらにしゃがんで語りかけた。
「マージ、あの小僧、怖くてこっちに来れないんだぜ。ばっかだよなあ」
しかし、これだけの犬がいると、それぞれの個性を観察しているだけで楽しくなってくる。はなは個人主義。みんなからはひとり離れて涼んでいる。ベントンは熟女好きで暑さが大の苦手らしい。少し歩き回った後で、涼しくて気持ちのいい湿った土の上に伏せて荒い息を繰り返している。カルロは遊びたい盛りで、さきはお行儀がいい。ペロは目が悪いながらも果敢に歩き回り、ルビはお父さんやお母さんの周りをうろうろしている。
マージはわたしのかたわらで微笑んでいる。とりあえず、初めての群れに遭遇して緊張はしているのだろうが、彼らに敵意がないことを察し、適当な距離を保ちながら、非日常を楽しんでいるようだった。
カルロはお父さんがコントロールしていたが、隙を見てはワルテルと遊ぼうとする。そのたびに、ワルテルは「ひーん」と泣きながら逃げまどった。さすがに可哀想になってきて、わたしはワルテルに近づいた。
「ほら、調子に乗って吠えまくってるからこういう目に遭うんだぞ。自分と相手の力関係を見極めてから吠えろ」
ワルテルはわたしが来るのが遅いと詰るように突進してきた。ワルテルをなだめてやり、リードをつけて犬軍団の方に連れていく。コミュニケーションを取らせたかったのだが、ワルテルはすっかり恐怖にすくんで、自分よりはるかに小さいルビが近づいてくるだけで及び腰になる。カルロが近づいて来ようものなら、もうパニックだ。
お腹の調子が悪い時に変な刺激を与えるのは良くないのだろうが、今日は特別だ。わたしは大いに楽しませてもらった。
小一時間もすると、マージが疲れた様子を見せはじめた。みくに家、ベントン家の人たちに暇を告げ、今夜7時の晩餐のことを確認して、犬たちを車に乗せた。ワルテルはいつもより素速く車に飛び乗る。この場から去りたくてしょうがないのだ。
途中、フランスベーカリーに寄って、バゲットと塩クロワッサン、それにピロシキを買った。向かいの浅野屋でサラダ系の総菜を買い、別荘に戻る。
まだ、連れあいも友人も眠りこけていた。東京から来た人間には、軽井沢の眠りはどこまでも心地いいらしい。
スープ、十三穀米入りご飯、焼き鮭(ワルテルは療法食)、すりゴマ、水菜、大根、赤カブのみじん切り、オリーブオイルのご飯を用意する。ワルテルは普段の3分の1の量。明らかに食い足りなさそうだが、このままの状態が続くなら、一日絶食させることになる。マージが食べているそばでの絶食は辛いだろう。なんとか回復してくれるといいのだが。
犬に食べ終えさせると、煙草を一服してから人間のご飯の支度。といっても、総菜を皿に盛りつけ、バゲットを切るだけだ。ピロシキは昼用に取っておいて、バゲットと塩クロワッサン、総菜と牛乳の朝ご飯。何度食べてもフランスベーカリーのパンは美味しい。
食後は仕事。連れあいと友人はゴルフの打ちっ放しに行くといって支度をはじめていた。外出の気配を察したワルテルが落ち着きをなくす。だが、置いてけぼりにされると知ると、カルロに追いかけ回されていた時と同じように、「ひーん、ひーん」と情けない声をあげはじめた。友人と連れあいが出ていくと、ベランダの窓からじっとふたりの背中を見つめる。やがてふたりが視界から消えると、ワルテルはわたしの足元にやって来て悲しそうに頭を垂れた。
「残念だったな、ワルテル。マージみたいにいうことをしっかり聞けたら連れていってもらえたかもしれないぞ。頑張って、はやくまともな犬になれよ」
わたしは頭を撫でてやったが、ワルテルの悲しみが癒されることはないようだった。
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立派な立派なベントン。 |
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年にも負けず元気なペロ。 |
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おっとりした感じのルビ。 |
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子供だけどでかいカルロ(はなちゃんとさきちゃんの写真を撮ってなかった。ごめん!) |
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マージとベントンは仲良くご挨拶。 |
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こちらはまったり組
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2時半すぎに空腹が耐えがたくなり、ピロシキをひとつ食べた。ああ、何度食べてもフランスベーカリーのピロシキは美味しい。カレーパンなど、他にもトライしてみたいパンはあるのだが、なぜかピロシキに手が伸びてしまう。
3時に連れあいたちが戻ってきて、犬たちが騒ぎ出す。わたしの仕事に対する集中力が著しく乱された。不機嫌になっていく自分がわかる。マージもそれは察していて、さりげなくわたしのそばから離れていった。
失われた集中力が戻ることはなく、わたしは溜息を漏らしながら仕事を終えた。
遠くで雷が鳴り、空が見る見るうちに雲に覆われていく。これは夕立が来るなと慌てて犬たちと外に出た。しかし、車に乗ろうとしたその瞬間、雨粒が落ちてきた。
「マージ、これはだめだ。すぐに本降りになるからさ。今日は車に乗るの諦めろ」
わたしは回れ右をして、ワルテルと共に来た道を戻った。マージは車のかたわらで仁王立ちし、愕然とした表情でわたしたちを見つめている。その間にも、雨足は少しずつ強くなっている。
「マージ、おいで」
マージは空を見上げ、やがてしょうがないというように歩きはじめた。
別荘の敷地内、木々の下で少し遊ぼうと思ったのだが、5分もしないうちに土砂降りになった。天然の傘も、人造の傘も意味をなさないほどの激しい雨足だ。これには両手をあげて降参するしかない。
幸い、朝の散歩が長かったのと、カルロに追いかけ回されてワルテルがくたびれていたおかげで、犬たちはあまり不満を漏らさずに別荘に戻った。激しい雨はまだ降り続いているが、空の西の方は雲が薄れ、日光が見え隠れしている。まったくの通り雨。しかし、その激しさはスコール並だった。
10分ほどで雨はあがった。だが、敷地内は水まみれだった。
ケーナインヘルスと馬の肺の肉(ワルテルには療法食)の晩ご飯を作り、充分に冷めてから与える。マージもワルテルも食欲の衰えるということがない。
6時半に別荘を出て、六本辻の「トラットリア・プリモ」に向かう。そでこ再びみくに家、ベントン家と合流し、晩餐を楽しむのだ。
連れあいをみんなに紹介し、前菜を適当に頼む。酒を飲むのは我々夫婦とみくに家のお父さんだけ。白ワインとソフトドリンクで乾杯し、いざフォークを手に取ろうとする直前、みくに家のお母さんが我々にプレゼントをくれた。バーニーズのぬいぐるみ、そして、わざわざ描いてくれたマージとワルテルのトール・ペインティング。わたしも連れあいも感激し、ありがたく頂戴した。
晩餐の話題はもっぱら犬のこと。飽きることなく話し、笑い。気がつけば皿はすべて空になっていた。食後は、最近アイラ・モルトに凝っているというみくに家おお父さんに軽井沢ウィスキーを勧めて、飲む。みくに家のお父さんは滅法酒が強く、オン・ザ・ロックスを次々に空にし、わたしにもお代わりを勧めてくる。結局、4、5杯飲んだだろうか。すっかり酔っぱらってしまった。
勘定はわたしが持つつもりだったのだが、トイレに行っている間に、先に済まされて、結局、ご馳走になる羽目になってしまった。
ご馳走様でした。ありがとうございます。
車に乗りこむ両家に別れを告げて、我々は徒歩で別荘に戻った。帰りを待ちわびていた犬たちをすぐに外に出し、敷地内をうろつく。だが、マージがすぐに帰りたがり、結局、わたしはまたワルテルと自転車で出かけた。
酔っているわたしは自転車のスピードを上げる。
「ワルテル、ついてこれるか? ついて来いよ」
自転車のスピードが上がるたびに、ワルテルのストライドが大きくなる。ワルテルは嬉しそうに走っていた。レンタルビデオ屋でDVDを数枚借りて、別荘に戻った。
酔っぱらいながら、トム・クルーズ主演の「コラテラル」を観る。あまりのくだらなさに途中で眠気に襲われ、抗う気力もなくて、連れあいにおやすみを告げた。なんでこんなもの借りてきてしまったかなあ・・・。
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プレゼントされたぬいぐるみとトール・ペイント。 後ろにいるのは縫いぐるみを玩具にしようと狙っているワルテル。 |
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