軽井沢日記
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8月22日 軽井沢 39日目

 昨夜の予感通り、トイレシートの上に柔らかいウンチが大量に乗っている。雪音たちが来たことで興奮し、またお腹の具合が逆戻りしてしまったのだ。
 前夜は、犬たちと散歩に行くと息巻いていた雪音だが、わたしたちが散歩の支度をはじめても、部屋から出てくる気配がなかった。あとで拗ねるだろうことはわかっていたが、女性たちの部屋に勝手に入るわけにもいかず、犬たちの期待を裏切るわけにもいかず、そのままそっと別荘を出た。
 いつものようにスポーツパークのグラウンドで遊び、帰りにフランスベーカリーに立ち寄る。
 一昨日までは朝早い時間でもごった返していたのに、今日は2、3人の客しかいない。軽井沢のハイシーズンも、ついに終焉を迎えたのだ。現地で暮らし、観光で収入を得ている人たちには悪いが、ほっと息をつく。静かな軽井沢が戻ってきつつあるのだ。
 バゲットに塩クロワッサン、ピロシキに手を伸ばしたいのをぐっと堪えて、カレーパンとソーセージとハーブを乗せて焼いたパンを買う。ついでに、オニオンとガーリック風味のペーストも。また、有機栽培の美味しいトマトを頂いてしまった。ありがとうございます。別荘に戻る車中、パンの匂いにマージとワルテルが涎を垂らしまくった。
「いい匂いだよな。人間だってそう思うんだから、おまえらの鼻には毒だよな。もうちょっと待ってろよ。戻ったら、すぐにご飯作ってやるから」
 わたしがそんなことをいっても、犬たちの涎が止まるわけではない。
 別荘に戻ると、雪音はまだ寝ていた。
犬たちの散歩の後始末を女性陣に託し、わたしは食事の支度をする。昨夜作っておいた野菜と煮干しのスープにご飯。マージにはラムの挽肉、ワルテルには療法食。大根と水菜のみじん切りにすりゴマ、オリーブオイル。もちろん、各種サプリは忘れない。
 人間たちには、旧軽銀座のおみやげ屋で買った葡萄ジュースと林檎ジュース、バゲットに塩クロワッサン、それにもらったばかりの生トマト。
 食事だよと次女が雪音を起こすと、すでに犬たちの散歩が終わってしまったことを知った雪音は案の定、拗ねてしまった。
「しょうがないだろう、寝坊したんだから」
 わたしがそういうと、みんなから非難の視線を浴びた。本当のことなのだが・・・。
 トマトも美味で、オニオンとガーリックのペーストをバゲットに塗りたくって食べると、これがまた美味だ。美味しく楽しく、朝食を終える。3女が入れてくれたコーヒーと一緒に葉巻をふかし、悦に入る。
 11時過ぎに、女性陣が出かける支度をはじめた。雪音は犬たちと一緒にいたいと駄々を捏ねる。
「雪音、4時までにお母さんたちを説得して戻ってこいよ。そしたら、一緒に散歩に行けるぞ」
 わたしの言葉にやっと納得したのか、雪音はうなずいた。
 女性陣がいなくなると、また、ワルテルは安心して眠りに就いた。それまではなにかと落ちつきなく、部屋の中をうろついていたのだ。雪音に触られてもパニックに陥ることはなくなったが、だからといって警戒心を完全に解いたわけでもない。普段はわたしと連れあい、それにマージだけとの暮らしに慣れている。まだ、他者とのコミュニケーションがうまく取れないのだ。マージのように他人がいても眠り呆けることができるようになるには、時間がかかる。
 静かになった別荘で、仕事をはじめる。マージとワルテルの寝息が心地よく耳をくすぐった。怠惰な自分と戦い、御せねばならぬ。難事業だが、やらねばならないのだ。
 
 
車の中での留守番はつまらないんだよなあ・・・。
車の中での留守番はつまらないんだよなあ・・・。
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パ、パンの匂いだわ。ああ、陶酔しちゃう・・・。
パ、パンの匂いだわ。ああ、陶酔しちゃう・・・。
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次女のパンを狙う魔犬2号。
次女のパンを狙う魔犬2号。
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いわゆる「乱交」にご満悦のワルテル。
いわゆる「乱交」にご満悦のワルテル。


* * *

 頑張ったおかげか、仕事が順調に進み、3時にはノルマを達成することができた。そのまま仕事を続けても良かったのだが、結局ソファに横になり、うたた寝をした。
 ワルテルの吠え声で目覚めたのが4時ちょうど。連れあいたちが帰ってきたのだった。連れあいは清水さんと一緒だった。我々が目をつけていた土地が売れそうだという。うーん。
 いろいろ相談しているうちに時間を忘れ、マージがひーひー鳴く声で散歩のことを思い出した。
 あとのことを連れあいに任せ、マージ、ワルテル、そして雪音を車に乗せる。スポーツパークで雪音とワルテルを思いきり遊ばせ、その横でわたしとマージは優雅に散歩する−−そんな思惑を抱いていた。雪音にぶんぶんボールを渡し、投げ方を教えてやる。
「さあ、雪音。ワルテルを走らせてやれ」
 雪音の非力な腕ではボールは遠くまで飛ばず、最初のうちは付き合っていたワルテルも、やがて飽きたようでボールを追わなくなった。雪音は雪音で、自分が思い描くとおりにワルテルが走ってくれないので少しずつ気分を害していく。
 世の中には思うとおりにいかないことがたくさんあるんだ、それを学べ、雪音。
 わたしは特に助け船を出すわけでもなく、マージと一緒にゆっくり歩きながらふたりを見守った。
 やがて、ボールを投げるのに飽きた雪音が周囲を飛び交っている赤とんぼに気づき、追いかけはじめた。雪音は女の子だが、虫が好きで好きでたまらないのだ。
 走りはじめた雪音をワルテルが追いかける。雪音にまとわりつき、からみつき、やがて自分の力の方が上だと確信して、雪音をからかうように周囲を回った。
 ワルテルが本気で体当たりをかませば雪音は弾き飛ばされてしまう。これは止めた方がいいなと判断した次の瞬間、ワルテルが雪音の股間に首を突っこみ、頭を跳ね上げた。
 雪音の小さな細い身体が宙を一回転して、背中から地面に落ちた。
「雪音!」
 わたしは慌てて駆け寄っていく。わたしの剣幕に驚いたワルテルが遠くに駆けて逃げていった。
「大丈夫か、雪音?」
 雪音を抱え起こし、顔を覗きこむ。背中をしたたかに打ちつけて息ができないのか、雪音はうなりながら背中をさすった。今にも泣き出しそうだったが、必死で涙を堪えている。
 わたしはほっとした。雪音が大きな怪我を負っていないからというより、雪音が泣かなかったからだ。涙を流す女ほど始末に負えないものはない。それが小さな女の子だったらなおさらだ。雪音が悪いわけではないことは重々承知しつつ、それでもわたしは機嫌が悪くなるだろう。
 わたしはそういう人間だ。親にはなれない。
 だが、雪音は泣かず、我々からひとり離れてグラウンドをうろつき、怒りや悲しみや落胆を自分で処理していた。
 雪音の様子を見守りつつ、ワルテルを呼んだ。ワルテルはうなだれながらやってくる。
「なんでおれが怒ってるかわかってるな?」
 ワルテルはわたしの足元に座ってハンドをした。ゆるしてくれといっているのだ。
「おまえだって子供だから仕方ないけど、相手は女の子だぞ。ワルテルより弱いんだぞ。そんな子を虐めて楽しいか?」
 もちろん、ワルテルにことの善悪がわかるわけはない。だが、自分より小さなもの、力の弱い者を威嚇したり弄んだりしたら、わたしが悲しんだり怒ったりするということをわからせたいのだ。
「雪音が悲しんでるの、わかるだろう?」わたしは雪音を指差した。「ワルテルのせいだぞ。マージは絶対あんなことしないからな」
 わたしはワルテルにリードをつけ、マージと一緒に歩かせて、雪音の怒りが解けるのを待った。もちろん、相手は子供だ。他のことに気を取られて怒りを忘れるのにそれほどの時間はかからない。
「雪音、もう、ワルテルとは遊びたくないか?」
 さりげなく我々のそばに戻ってきた雪音にわたしは訊いた。
「遊びたいけど、さっきみたいのはいや」
「犬はな、走ってる人を見ると追いかけたくなるんだ。ワルテルはマージと違ってまだ子供だから、力を加減することができないんだ。雪音も、ワルテルがそばにいる時は、走らないこと。そうすれば、もっと楽しく遊べるぞ」
「走らないとつまんないもん」
 雪音はそっぽを向いた。しょうがない。それじゃあ、ワルテルと遊ぶのは諦めてもらおう。悪いが雪音、おれはおまえのママみたいに優しくないからな。
「そうか。じゃあ、帰ろう」
 雪音の顔が歪んだ。また、泣きたいのを堪えている。
「マージがもう疲れてるし、雪音がいうこと聞いてくれないと、もっと疲れちゃうからな」
「もうちょっと遊びたい・・・」
「じゃあ、今日はワルテルと遊ぶんじゃなくて、トンボを捕っておいで」
 雪音は勢いよく頷き、トンボのいる方に駆けていった。わたしに叱られた記憶がすっかり消えたワルテルがその後を追いかけようとする。わたしはリードを引いた。
「ワルテル、今日は可哀想だけど、リード付きで散歩だ。我慢しろよ。女の子虐めたおまえが悪いんだからな」
 雪音はトンボを追いかけていたが、木もなにもない野っぱらでトンボを捕まえるのは至難の業だ。すぐにあきらめ顔で戻ってきた。
「虫取り網、持ってくれば良かった」
「じゃあ、明日持ってこよう」
 わたしがそういうと、雪音は納得したのかしっかりとうなずいた。ワルテルをダウンさせ、ステイをかけてから雪音をワルテルに跨らせてやった。
「ワルテル、さっきはごめんねってさ」
「ゆるしてあげるよ、もう」
 雪音はいった。女の子はこまっしゃくれている。  

   
雪音と遊ぶワルテル。
雪音と遊ぶワルテル。
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雪音を襲うワルテル。
雪音を襲うワルテル。


* * *

 中軽井沢の「ア・ラ・ガール」でカレーを食べ、次女にマージたちの食事の与え方を克明に書いたメモを渡した(こういうことでは、連れあいはまったくあてにならない)。簡単な荷造りを済ませ、犬たちを呼び寄せる。
「今日と明日、おれはいないからな。いい子にしてるんだぞ」
 明日、どうしても出なければならないイベントがあって、わたしはひとりで東京に戻ることになっていた。ワルテルはわけがわからずに尻尾を振っていたが、マージは表情を曇らせた。嫌なことが起こると雰囲気で察したようだった。わたしは二頭の頭にキスをし、別荘を出た。
 東京に到着したのは午後10時。冷房の効いた車から降りると、脱力したくなるほどの蒸し暑さに気持ちが萎える。
 ハードディスクに溜まっていたアメリカドラマを見まくって、気がつけば午前2時。だれもいない部屋で、だれにおやすみの挨拶をすることもなく、わたしはひっそりとベッドに横たわった。闇の中でも必ずすぐそこに感じられるマージとワルテルの気配がない。我が家であるはずの東京のマンションは徹底的に空虚だった。犬たちが恋しくもあり、しかし、わたしはこの空虚さを愛してもいる。
 面倒くさい飼い主と巡り会ってしまったな−−脳裏の犬たちにそう語りかけ、わたしは目を閉じた。




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