 |
- |
8月25日 軽井沢 42日目
7時に目覚める。肌寒さに布団をかぶりなおす。雨は一晩中降り続け、軽井沢に秋の彩りを与えようと躍起になっていた。気温は15度ぐらいだろうか。半袖では明らかに寒い。
犬たちにレインコートを着せ、わたしも雨具を身にまとって外に出る。マージは車に乗るつもりのようだったが、この雨ではスポーツパークに行っても泥まみれになってしまう。
「マージ、今日は車には乗らないぞ」
車の横で抱きかかえられるのを待っているマージにわたしは宣告した。マージはうなだれ、悲しそうに空を見上げる。
10分ほどで散歩を切り上げ、朝ご飯の支度をはじめる。マージには作り置きのスープ、ご飯、羊の挽肉、ヨーグルト、すりゴマ、エゴマ油、各種サプリ。ワルテルには件のドッグフードにスープをかける。もちろん、どちらも完食だ。
人間には、次女たちが「コクーン・ティーガーデン」というカフェレストランで買ってきたパンをスライスし、これまた薄くスライスしたパンチェッタをカリカリになるまで焼き、スクランブルエッグと簡単なサラダを作る。
食後は3女が入れてくれたコーヒーだ。洗い物は女性陣が引き受けてくれる。快適この上ない。
コーヒーを飲み終えてからシャワーを浴びた。東京に帰る前はぬるめに温度を設定していたのだが、今日は熱めにする。たった二日の間に気候がすっかり変わってしまった。湯冷ましに窓のそばにたたずみ、秋の雨の匂いを楽しんだ。
 |
別にわたしたち、仲がいいわけじゃないのよ。 |
 |
 |
だから、仲がいいわけじゃないの。ただ、食べ物の匂いが・・・。
|
* * *
昼飯は3女たちがツルヤで買ってきたベーグルとキャベツメンチを使ってサンドイッチを作った。相変わらずうまい。ツルヤ特製中濃ソースが効いている。
雪音が絶好調だ。狭い部屋の中を甲高い声をあげて駆け回り、犬たちにちょっかいを出し、母親の声を無視し、仕事をしているわたしの顔を覗きこむ。
いかんいかんと思っていても苛立ちが募っていく。わたしが睨むと、雪音は一瞬だけ静かになる。だが、それは本当に束の間だ。わたしが怒っていることはすぐに忘れてまた騒ぎ出す。
とうとう、我慢の限界が来てしまった。
「これじゃ仕事にならない!!」
大声で叫び、わたしは大股で歩いてベッドに乱暴に身体を投げ出した。別荘の空気が凍りついているのはわかる。しかし、一度崩れてしまった精神状態は理性が囁いたぐらいで元に戻れるようなものでもない。わたしは腹を立て、苛立ち、ぴりぴりした空気を発散させて他の人間を威圧している。
女性陣がいそいそと出かける支度をはじめた。犬たちがわたしのそばにやってきて匂いを嗅ぐ。わたしの怒りが自分たちに向けられたものなのかどうか確認しているのだ。犬たちを撫でたが、苛立った神経が鎮まることはなかった。
女性陣が別荘を出て行って、わたしは深いため息を漏らした。軽井沢に来てから仕事のペースは落ちている。なんとかしなければ。そう思えば思うほど、苛立ちだけが強まり、結果仕事は進まなくなるのだ。
* * *
雨足は少しずつ、確実に強まっている。結局ほとんど仕事が進まないまま、わたしは4時にパソコンの電源を切った。今日は、ワルテルの兄弟犬、キャプテンとスポーツパークで遊ぶ約束をしているのだ。しかしこの雨だ。キャプテンがスポーツパークに来るかどうかは定かではない。連絡先を教え合っておくべきだった。
それでも、約束は約束だからと犬たちをスポーツパークに連れていく。到着した時には雨が小降りになっていたが、ドッグランの中に入った途端、また雨足が強まった。とりあえず、林の中で雨を避ける努力をしながらキャプテンを待った。
だが、15分経ってもそれらしき犬も、車もやって来ない。
「いくらなんでもこの雨じゃ無理だよな。きっと、明日来るんだ。兄弟との再会はお預けだな、ワルテル」
キャプテンの家−−堀家とは今日の夕方か明日の朝遊ぼうという曖昧な約束を交わしていただけなのだ。台風を避け、明日、姿を現すと考えるのが自然だった。
マージたちには簡易レインコートを着せていたが、すでにずぶ濡れだった。大急ぎで車に乗せ、別荘に舞い戻る。駐車場に車を止め、犬たちを降ろしたところで、別荘の敷地に一台の車が入ってきた。後部座席にバーニーズが乗っている。
キャプテンだった。
スポーツパークには行けなかった代わりに、ここに来ればワルテルに会えるのではないと思ってわざわざ足を運んでくれたのだ。ワルテルはほぼ1年と2ヶ月ぶりに兄弟との対面を果たした。いつものように、最初は威勢よく吠え、ついで怯え、匂いを嗅ごうと寄ってくるキャプテンを避けてわたしの背中に隠れてしまう。
しかし良く似ている。ワルテルより若干小さいのと、夏用に毛を刈り込んでいるせいでなんとか見分けがつくが顔つきも毛の色も瓜二つだ。
もっとワルテルとキャプテンにスキンシップを取らせてやりたかったが、雨の勢いはさらに激しさを増してきた。横殴りの風と一緒に雨が身体を打つ。傘を差していてもほとんど意味がない。
明日、スポーツパークでの再会を約し、キャプテンと別れた。
「ワルテル、キャプテンはおまえの兄弟なんだぞ。ちゃんとわかったか?」
ワルテルはきょとんとした顔をするだけだった。
 |
台風が来るのね・・・憂鬱だわ。 |
 |
 |
凄い雨。もう、ずぶ濡れ。
|
 |
 |
急いで車に戻りましょ。
|
 |
 |
キャプテン、登場!!
|
* * *
アロー建設の清水さんの車に乗って、中軽井沢は軽井沢町役場の向かいの居酒屋「和み屋」へ行く。いつものように奥さんと一善君も一緒だ。
わたしたちが目をつけていた420坪の土地があるのだが、420はいらない、300から350坪ぐらいに区画しなおして売ってもらえるかどうか、売り主に確認してくれと清水さんには頼んであったのだ。
「350でいいそうです」
清水さんがいった。わたしと連れあいは顔を見合わせた。
「土地はわたしたちが売りやすいように手を入れていいと・・・どうします?」
まず、土地を手に入れるためにかかる総額を計算してもらった。予算にぎりぎり収まる範囲の金額だった。それから、図々しい要求を3つか4つほど、清水さんにぶつける。清水さんは時々渋い表情を浮かべつつ、結局はわたしと連れあいの縋るような眼差しに押されて頷いた。
「わかった。その土地、買います」
ついにわたしは言ってしまった。いくつもの土地を見た。友人たちからの忠告やアドバイスにも多数、耳を傾けた。しかし、わたしと連れあいのふたりが自分たちの感覚で「ここはいい」と同意したのはその土地だけだったし、我々の無茶な要求も、清水さんは飲んでくれた。ここで決断しなければ、この先どれだけ経っても土地を買うことはできないだろう。
この日記の読者から「別に軽井沢にこだわらなくてもいいのではないか」という趣旨のメールを先日もらった。その人は犬と一緒に千葉の田舎に暮らしている。もっと安く土地を買い、家を建て、犬たちを遊ばせることができる場所は他にもいくらでもある。しかし、我々は軽井沢でなくてはならないのだ。わたしは田舎を嫌って、いや、憎んで東京に飛び出した人間だ。いくらマージのためといっても、本当の田舎に家を持つことは考えられない。連れあいも東京生まれ、東京育ちで、これまた田舎に家を持つことなど断じてよしとはしない。
人間も犬も楽しめる場所といえば、もうなにがどうあっても軽井沢しかないのだ。緑があり、山があり、人間の大抵の欲求を満たしてくれる街があり、東京にも一時間で帰ることができる。新幹線のおかげで、軽井沢は八王子よりも都心に近い街になった。わたしは都会生活における利便性を捨てることはできないし、そのつもりもない。いくら軽井沢がいい場所だといっても、そこで365日過ごせば、参ってしまうだろう。
そういう人間にとって、軽井沢は唯一無二の選択肢なのだ。河口湖にいい土地があると教えてくれた人がいた。蓼科にいい中古物件があると教えてくれた人もいた。だが、わたしも連れあいも、土地を見に行こうとすら思わなかった。
ここが軽井沢だからこそ、犬のために家を建てようと思ったのだ。犬も我々も快適に過ごせる家を造ろうと考えたのだ。他の場所では、そんなことは頭をよぎりもしなかったに違いない。軟弱な都会人がなんちゃって田舎ライフを満喫するための場所−−それが軽井沢だ。だから軽井沢は人気がある。土地が高い。物価も高い。それでも、人々はここに集ってくる。来なくてもいいやつらもやって来る。
土地を正式に買うための手続きや段取りの話を聞き、その後は単なる宴会になった。ここ数日はしゃぎすぎてくたびれ果てたのか、雪音はぐっすり眠っていた。
高い買い物をすると決心した直後だというのに、わたしはいたって平静だった。頭の中にあるのは友人の建築家の尻を蹴飛ばして、早く家の設計をさせなければということだけだった。
マージが生きているうちに−−その言葉は、いつだって呪文のようにわたしの頭を駆けめぐっている。
* * *
9時前に別荘に戻った。横殴りの風と雨に、おれた枝があちこちに落ちていた。犬たちの出迎えを受けながら、しばし胃を落ち着ける。待ってみたところで、雨は勢いを増しこそすれ、小振りになることはないだろう。
意を決して犬たちと外に出る。強風に煽られて、マージがよろめいた。台風の影響はさらに強まり、天候は荒れ狂っている。
我々は這々の体で散歩を切り上げ、風に煽られてざわめく梢の音を聞きながら、夜の更けるのを眺めるしかなかった。
|←| top |→|
|
|
|
|