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8月29日 軽井沢 46日目
寒さに首をすくめる。空は薄い雲に覆われて、別荘地に生えている木々が風に揺れていた。気温は15度を下回っているのかもしれない。
犬たちとスポーツパークに行くと、昨日までは蟻の群れのように駐車場に停まっていた車が跡形もなく消えていた。わずかに一台、仮設トイレを運び出そうとしていた小型トラックが、泥にタイヤを埋めて立ち往生している。
「ロープか何かありますか? 引っ張りますけど」
わたしは頭を抱えている運転手に声をかけた。
「牽引用のロープ、ないんですよ。でも、大丈夫です。助っ人呼んでますから。ご心配かけてすみません」
犬たちはそわそわしながらわたしと運転手のやり取りを見守っていた。早く遊びたくてしょうがないのだ。リードをしていないマージも、わたしの足元で律儀に待っている。
グラウンドに出て、ワルテルのリードを放してやる。いつもならそのまま好き勝手な方角にすっ飛んでいくのだが、今日はマージと一緒に足元の匂いを真剣に嗅いでいる。きっと、無数の犬たちの匂いが、まだ芝にこびりついているのだろう。マージもいつもより落ち着きがない。
だが、それも数分のことで、匂いを嗅ぐことに飽きると、ワルテルはいつものように気ままにうろつきはじめた。マージはわたしの後をとことこついてくる。肌寒いが、風が気持ちいい。薄い雲が割れて陽射しが顔を出そうとしていた。
今日は病院へ行く日なので、いつもより少し短めに散歩を切り上げる。
マージには昨日作っておいたスープ(煮干し、舞茸、トマト、セロリ、ブロッコリの茎)にご飯、馬の粗挽き肉、ヨーグルト、すりゴマ、キュウリのみじん切り、大根おろし、グレープシードオイル。ワルテルはスープとご飯、馬肉の代わりにドライとウェットのドッグフード。
わたしは、昨日連れあいが食べなかったサンドイッチを胃に詰め込んだ。シャワーを浴び、細々とした家事を済ませていると、病院へ向かう時間になった。
マージとワルテルを車に乗せて病院へ。雲はすっかり消え、冷たく澄んだ青空が広がっていた。木陰から日なたに出るときつい陽射しが目映いほどだ。
マージの注射を済ませ、そのまま軽井沢駅前のアロー建設に向かう。土地の売買契約を済ませるためだ。我が儘をいって犬たちも中に入れてもらうと、社員たちがわらわらと群がってきた。みんなこの日記を読んでいるらしい。ワルテルが興奮してリードを引っ張った。怒るに怒れず、わたしは苦笑した。
大量の書類を前に、専門用語が頻繁に出てくる説明を受け、契約書にサイン押捺する段になって、印鑑を持ってこなかったことに気づいた。いや、持ってくるもなにも、わたしの印鑑はすべて、東京に置いてある。間が抜けているにもほどがある。先週、戻った時に取ってくれば良かったのだ。
アロー建設の社員に三文判を買ってきてもらい事なきを得たが、自分の抜け加減に嫌気が差してきた。マンションは東京にふたつ持っているが、土地を買うのはこれが初めてだ。知らないことが多すぎて、とても勉強になった。といっても、土地を買うことはもう二度とないだろうが。
正式に契約を交わし、書類を受け取って、いったん、犬たちを別荘に連れて戻る。そのまま、清水さんの車に乗って昼飯を食べに行った。バイパス沿いの蕎麦屋で鴨せいろを食べ、しばし歓談する。
気がつけば一時を回っていた。昨日、仕事をさぼったのだ。今日はそういうわけにはいかない。清水さんに送ってもらって別荘に戻った。
「マージ、今日、土地を買ったぞ。マージのために買うことにしたんだ。家が建つまで、頑張って長生きしろよ」
尻尾を振ってわたしを帰りを喜ぶマージにわたしはそう告げ、パソコンの電源を入れた。
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これ、なにかしら? |
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ちょっと、濡れた草の上でダウンしてると叱られるわよ。
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わかってるんだけど、身体が・・・
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勝手にごろんごろんって・・・
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ああ、気持ち良かった。
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あんた、ほんとに馬鹿ね・・・。
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さほど仕事が進まぬまま、溜息と共にパソコンの電源を落とした。自己嫌悪を噛み締めつつ、犬たちと散歩に行く。わたしの翳った感情を読みとったのか、犬たちは散歩に出かけることを喜んではいるが、いつものような弾ける感じはなかった。
車でスポーツパークに行く。車を降りてすぐ、マージがおしっこをする。腰を屈め、放尿し、腰をあげようとしてよろめく。わたしは慌ててマージを抱きかかえた。マージは困惑の表情を浮かべていた。うまく立てなかったことに驚いている。
「大丈夫か、マージ?」
わたしはマージの後肢に触れた。別におかしな感じはない。「注射の後、足がもつれることがあるかもしれません」という菊池先生の言葉を思い出した。そうであればいい。そうでなければ、毎日こうやって野っぱらを歩き回っていても、マージの筋力は衰え続けているということだ。
わたしが手を放すと、マージは歩きはじめた。相変わらず腰が重そうだが、歩行自体に支障はないようだ。
足がもつれただけだ−−なんとか自分に言いきかせて、わたしは待ち構えているワルテルのためにぶんぶんボールを投げた。
バーニーズはリトリーヴ(ものを持ち帰ってくる)が得意ではない。ワルテルは2、3度ボールを追いかけただけで興味を失い、わたしに追い駆けっこをしてくれとせがみはじめた。
「ワルテル、今日はくたびれてるんだ。走れないよ」
わたしはぶんぶんボールを拾いあげ、ワルテルに紐の部分を囓らせた。走るのはごめんだが、引っ張りっこになら付き合ってやってもいい。わたしは紐の端っこをしっかり握って、ワルテルを引っ張る。真剣にやらないと、こっちがワルテルに引きずられそうだ。
ワルテルが興奮して唸り出すと、引っ張るのをやめてくわえている紐を放させる。落ち着いてきたらまたくわえさせて引っ張りっこだ。わたしとワルテルが遊んでいるのを、マージが頬を緩めて眺めている。陽射しの下でマージの表情は穏やかだった。
ワルテルを引きずりながらマージのところに行き、片手で頭を撫でてやる。
「マージも遊ぶか?」
マージは微笑んでいるだけで、我々の遊びに参加しようとはしなかった。
汗をかいてきたところで引っ張りっこを終了させた。ワルテルは遊び足りなさそうだったが、これ以上はこちらの身が保たない。
「夜、自転車でたっぷり走らせてやるから、これで勘弁しろよ」
愚痴るようにいいながら、わたしは犬たちを車の方に誘導した。
* * *
マージにはケーナインヘルスと煮込んだ馬肉、生の馬肉を半々ずつ、ワルテルにはドライとウェットのドッグフードに馬生肉を少々入れてやる。ケーナインヘルスが冷めるのを待つ間、マツヤに自転車で行って食材を買う。しっかりと作る気力はなかったので、総菜コーナーでトンカツを一枚買った。他には、マージたちの魚や野菜を買い物かごに放り込んだ。
犬たちに食事を与え、食べている間にキャベツを千切りにする。ご飯とトンカツをレンジで温め、ツルヤ特製中濃ソースをかけて食べる。ソースカツ丼にしても良かったかな。
食後はコーヒーを飲み、葉巻を吸いながら「冷血」のゲラを読む。しかし、一時間ほど読み進んだところで睡魔に抗えなくなり、ソファに横たわった。
眠ったと思ったら電話が鳴った。徳間書店のK女史からで、新刊のゲラチェックをお願いしたいということだった。30分ほどかけてチェックをすませると、眠気は消えていた。だらだらとテレビを見、散歩の時間になると犬たちと外に出る。
上着がなければ震えあがってしまいそうな気温だった。空には星が瞬き、草木がざわざわと揺れている。おしっこを済ませたマージを別荘に戻し、ワルテルと自転車で出かけた。身体が暖まってくると、冷たい風が心地よく感じられるようになってきた。
「ワルテル、マージも一緒に走れたら良かったのにな」
舌を出して走るワルテルに、わたしはそう声をかけた。
「マージが寂しく思いながら待ってるからな。もうちょっと走ったら帰るぞ」
ワルテルはひたすらに地面を蹴っている。
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