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8月30日 軽井沢 47日目
今日も寒い。パジャマから服に着替えるのが億劫になるほどだ。外は青い空が広がり、陽射しが降り注いでいる。おそらく、日なたに出れば気持ちのいい気候なのだ。だが、この別荘地は木々に覆われているため、気温が低い。
上着を着て犬たちと外に出た。だが、別荘地の敷地を一歩出ると、上着などいらないというほどの陽気だった。昼と夜、日なたと日陰の気温差があまりに激しい。
スポーツパークのグラウンドは一部を除いてほとんど陽射しの下にあった。雨が降った気配はないのに芝は朝露でしっとりと濡れている。それどころか、ところどころに霜が降りた様子まで見受けられた。わたしは上着を脱いで腰に巻きつけ、ワルテルのリードを外してやった。ぶんぶんボールを投げると、ワルテルは勢いよく追いかける。だが、ボールの落ちたところを素通りして、どこまでも遠くに走っていく。
いいさ、好きにしろ。
「マージ、気持ちがいいなあ」
青と緑のコントラストの中をマージと一緒にゆったり歩く。マージはときおり足をもつれさせてよろめいた。転ぶまではいかないが、わたしを不安にさせるに充分な不安定な足取りだ。それでも、マージは足を止めようとはしない。
時々、ワルテルが戻ってきてボールを投げてくれとせがんだ。放ってやってもすぐに飽きるくせにと思いながらリクエストに応じてやる。
「あいつは馬鹿だなあ」ボールを追いかけていくワルテルの後ろ姿を見ながらマージに語りかけた。「もっとも、マージも昔はああだったけど」
そんなことないわよ−−マージはうつむいて、草を食みはじめた。ふと気がつくと、ワルテルが濡れた芝の上で転がっている。
「ワルテル、ノー!!」
声をあらげると、ワルテルは機敏に立ち上がってこちらに向かって駆けてきた。雨が降ったかのようにびしょ濡れだ。
「マージ、訂正する。昔のマージはここまで馬鹿じゃなかった」
陽射しがきつく、マージの背中がかなり熱くなってきたので木陰に移動する。クールコートはいらないかと高を括っていたが、太陽を侮ってはいけない。
地面に転がったままのぶんぶんボールを取るために小走りになったら、ワルテルが併走してきた。わたしが足を止めると中腰になって身構える。
「追い駆けっこは勘弁してくれよ」
わたしが嘆息しても、ワルテルは目をきらきら輝かせて待っているだけだ。しかたがない−−わたしは足の筋肉の様子を探りながらダッシュした。追いかけてくるワルテルを嘲笑うように方向を変える。またワルテルが追いついてくると、さらに別の方角に走り出す。
5分もそんなことをしていたら、完全に息が上がってしまった。90分、ボールを追いかけて走り回れたのは何十年前のことだ? わたしもすっかり衰えてしまった。
ぜーぜー喘ぎながら車に戻った。ワルテルはびしょ濡れのまま。まったく、困った小僧だ。
* * *
マージには作り置きのスープにご飯、レンジでチンした鰤、ヨーグルト、キャベツのみじん切り、すりゴマ、えごま油、各種サプリを、ワルテルにはドライとウェットのドッグフードにスープをかけたものを与える。
わたしはシリアル生活に逆戻りだ。グラウンドは陽射しがきつくて熱いぐらいだったが、部屋の中は半袖でいるには少々寒すぎた。トレーナーを羽織り、パソコンを立ち上げる。
この数日の遅れを取り戻さなければならない。わたしは歯を食いしばって小説と向かい合った。
* * *
なんとか自分に課したノルマをクリアして、犬たちと散歩に出かける。スポーツパークに着くと、小雨がぱらつきはじめた。雨ビッチの面目躍如だ。ドッグランに入り、林の下で遊ぶことにする。
マージの様子をそれとなく見守っていたが、足が多少もつれることはあっても、転んだりバランスを崩したりすることはない。
ワルテルが追い駆けっこをせがんできた。この空模様では夜は完全な雨だろう。自転車で走らせることはできない。
「わかったよ、ワルテル」
身体が悲鳴をあげるまで追い駆けっこに付き合ってやった−−といっても、例によって5分ぐらいのことだが。マージも追い駆けっこに参加したがっているようだったが、少し足を動かしかけては思いとどまっている。身体が重いのか、わたしに遠慮しているのか。ワルテルの追い駆けっこの相手が犬なら−−先日のフレンチブルのように−−マージも身体を動かすのかもしれないが。
肩で息をしながら、マージの横にしゃがんで抱きしめた。
「マージもこうやって追い駆けっことかかくれんぼしてたのにな。たった一年だぞ。一年でマージ、走れなくなった。わかってるけど、年取るの早すぎるぞ」
わたしの嘆きを、マージは尻尾を振るだけで聞き流した。
次第に雨が強まってきたので、遊び足りないワルテルを促して帰途についた。別荘に戻ったころには本格的な雨に代わっていた。
マージにはケーナインヘルスと鶏ササミ肉を一緒に煮込んだもの、ワルテルにはドライとウェットのドッグフードを混ぜ込んだものを与える。
わたしは料理をする気分ではなかった。なんとなく天丼が食べたくて、軽井沢駅前の「和助」に行ったが、超満員で入店を断られてしまった。しまった。軽井沢は夜が早いのだ。お年寄りなどは5時ぐらいから晩飯を食べ始める。ゆっくり飯を食べたいのなら、7時過ぎにした方がいい。しかし、空腹は耐えがたい。しょうがなく別荘の方に戻り、結局「ごはんや」でチーズハンバーグの定食を食べた。ごはんやの方は閑古鳥が鳴いている。地元向けの店か観光客向けの店かの違いが如実に表れている。
満腹になって別荘に戻り、留守番をしていた犬たちを褒めて、床に一緒に横たわった。2頭の犬と川の字になって、くっついたまましばらく戯れる。そのうちワルテルが興奮してきて、マージの機嫌が悪くなる。
もっと年齢が近ければこんなこともなかったのだろう。次に多頭飼いをする時は、ワルテルが充分に元気なうちにしようと思う。
コーヒーを沸かし、葉巻を吸いながらゲラを読む。ワルテルが邪魔をしに来るので、デンタルコングという玩具にレバー風味のムースを注入してくれてやる。
本来、この玩具は中におやつやムースを入れて、犬に玩具本体を噛ませることで歯磨き効果を生むというものなのだが、ワルテルは舌を伸ばして穴からムースを舐め取るばかりだ。てんで歯磨きにはならない。
マージがわたしにもくれというので、もうひとつのコングにレバームースを注入して与えてやった。すると、自分の分を舐め終えたワルテルがやって来て横取りしようとする。
マージが久しぶりに本気で怒った。牙を剥き、首を伸ばしてワルテルの顔を噛もうとする。ワルテルは飛び退いたが、マージのあまりの剣幕に怯え、尻尾を巻いてわたしに助けを求めてきた。
「マージのものを取ろうとしたおまえが悪い」
わたしはぴしゃりといって、ワルテルを無視した。こうやって犬は学習していくのだ。
マージが本気で怒っている顔を写真に撮っておきたいといつも思うのだが、それは唐突にやって来るので叶わない。本当に怖い表情なのだが。
9時半になるのを待って、夜の散歩に出た。雨はしとしとと降り続けている。例によって、マージはおしっこだけ。わたしとワルテルは再び外に出て、追い駆けっこをした。逃げるのはいつだってわたしの役目だ。犬の世界ではいつもボスが先頭を切って走る。わたしはマージとワルテルのボスだ。弱音を吐くわけには行かない。この苦行も、ワルテルが成長して落ち着くようになるまでのことだ。大人になったバーニーズは、遊びにしても5、6分で満足し、あとはゆったりとしているのを好むようになる。
汗をかいたので、シャワーを浴び、犬たちにおやつを与えた。わたしはいつものように白ワイン、次いでモルト・ウィスキー。葉巻を吸いつつ、ゲラを読み続けた。
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本当は噛んで欲しいのだが、ペロペロピチャピチャ舐めるだけのワルテル。 |
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もう一丁。
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わたしの帰りを喜ぶ魔犬たち。
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ご飯やおやつを待っている時は、いつも同じ顔だな、マージ。
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