軽井沢日記
-
8月31日 軽井沢 48日目

 雨はあがっていたが、空はどんよりと重く、鉛色の雲に覆われていた。昨日にもまして寒い。急いで服に着替え、もう一度空模様を眺めた。いつ雨が降り出してもおかしくはない。我が家には雨ビッチがいるのだ。急がなければ。
 大急ぎで支度を整え、車に向かう。その間に、ワルテルは二度ウンチをした。トイレシートにも二箇所ウンチが落ちていたから、本日すでに4度のウンチということになる。これではウンチ袋がいくらあっても足りない。今のドッグフードが終わったら、もう一度手作り食に変えてみよう。それでウンチが緩くなるようなら、他のドッグフードだ。いくらなんでも便の量が多すぎる。
 今日は珍しく、ワルテルはぶんぶんボールに執着した。取って帰ってくることはないのだが、わたしがボールを取るまで律儀に待っていて、ボールを投げてくれと催促する。
 ボールで遊んでくれる分にはわたしも楽なのだ。笑顔を浮かべながらどんどんボールを放ってやる。
 マージは立ち止まり、わたしとの距離が開くのを待っている。わたしが振り返って「カム」と呼ぶのを待っているのだ。それがマージにとっての追い駆けっこだ。のろのろと足を引きずりながら懸命に歩いてきて、わたしに「よく頑張ったな、マージ」と褒められるのを期待している。もちろん、わたしは彼女の期待に大袈裟に応えてやる。
「よし、頑張ったな、マージ。お婆さんになっても、足腰が弱くなっても、マージはおれのところに来るんだよな」
 滅茶苦茶に撫で回してやると、マージの表情がゆるむ。尻尾の振り方も大きくなる。ワルテルはボール遊びに飽き、グラウンドの隅っこの方でひとり、探索をしていた。その隙に、わたしとマージはスキンシップを楽しんだ。
 20分ほどすると、また雨が降り出してきた。マージはしっかりと期待に応えてくれる。犬たちを車に乗せ、旧軽銀座のフランスベーカリーへ。朝食用に塩クロワッサン、昼食用にピロシキなどの菓子パンを買ったのだが、会計をしていると、ちょうど焼き上がったばかりのバゲットが運ばれてきた。これを食わない手はない。
 車に戻ると、焼きたてのパンの匂いに犬たちが落ち着きを失った。散歩が終われば、次は食欲が彼女らの小さな脳味噌すべてを支配してしまうのだ。
「別荘に戻ったら、すぐにご飯作ってやるからな」
 犬たちはわたしの言葉などどこ吹く風で、パンの匂いを必死になって嗅いでいた。


* * *

 マージには作り置きのスープ、ご飯、大根おろし、キュウリのみじん切り、レンジでチンした鰤、ヨーグルト、すりゴマ、各種サプリの朝ご飯、ワルテルにはいつものやつにスープと大根おろしをかけたもの。
 わたしは焼きたてのバゲットにオニオン・ガーリックのペーストを塗りたくって食べる。鼻と舌と喉が旨い、旨いと連呼する。
 部屋の中は半袖だと寒すぎるぐらいだ。わたしは上着を羽織ってコーヒーを飲む。マグカップを両手で覆うように持って、冷えた指先を温めた。
 家が建つまでの間、こちらにマンションかアパートを借りようかと考えているのだが、ペット可の物件が見つからなかった場合、月に一度ぐらいこの貸別荘を借りるしかないかと考えている。しかし、この別荘、冬はかなり辛そうだ。


* * *

 菓子パンの昼食を食べ、そのまま仕事に雪崩れ込む。集中し、時間を忘れ、ワルテルに肘をつつかれて我に返る。4時を過ぎていた。
 犬たちとスポーツパークへ。朝は濡れそぼっていた芝もすっかり乾き、ワルテルがあちこちに駆け回る。マージは嬉しそうに目を細め、日光を浴びながらゆっくりと歩く。わたしはこの瞬間が永遠に続けばいいのにと、埒もない思いにとらわれる。暑くも寒くもない飽きの夕方はわたしにも犬たちにも楽園のようだ。
 先週まではあれだけとんでいた赤とんぼも今は影さえ見ることもなくなった。マージの体調もよさそうに見える。
 ワルテルにはぶんぶんボールを追いかけさせ、わたしとマージは、例ののんびりした追い駆けっこを楽しむ。わたしに褒められて喜んでいるマージの顔を撮りたいのだが、レンズを向けるとマージは顔を背ける。しかたがないので、デジカメのオートフォーカスに期待して、ファインダーを覗かずにいろんな角度からシャッターを押した。うまく写っていなければ削除すればいいだけのことだ。
 ワルテルは東に行ったり西に行ったり、グラウンドの中を所狭しとうろついている。「ウロテル」というくだらないあだ名もあるのだ。それでも、訓練の成果が出てきたのか、わたしが「カム」と呼ぶ声に聞こえないふりをする回数は減ってきた。
「ワルテル、カム!」
 ちらりとわたしを見、名残惜しそうに芝の匂いを嗅ぎ、それからとことこと小走りに駆け戻ってくる。どれだけ距離が離れていても、まっしぐらに向かってくる。ワルテルもいい子だ。
 マージの調子がよさそうだったので、いつもより長めに時間を取った。最後は、マージは元より、ワルテルも満足そうな表情を浮かべて車に乗った。
「今日は気分が良かったな」
 後ろの2頭に声をかける。なにより、わたし自身の気分が良かったのだ。

  
車から降りるのが待ちきれないマージ。
車から降りるのが待ちきれないマージ。
-
風が気持ちいいなあ。
風が気持ちいいなあ。
-
とりあえず走っちゃえ!
とりあえず走っちゃえ!
-
ファインダーを覗かずに取ってみた。
ファインダーを覗かずに取ってみた。
-
おかげで、マージの顔のアップが撮れた。オートフォーカス万歳!
おかげで、マージの顔のアップが撮れた。オートフォーカス万歳!


* * *

 マージにはケーナインヘルスと、煮込んだのと生の馬肉を半々。ワルテルにはドライのドッグフードと生の馬肉を少々。最近のワルテルはご飯を前に「ステイ」させられると馬のように「ひーん」と鳴く。鳴くとステイの時間が長くなるのだが、待ちきれないらしい。わたしになにかを催促したら、それが叶えられることはない。徹底して教える。催促に人間が応じたら、犬はどこまでもつけあがるからだ。マージは今や催促が犬の皮を被っているような状態だが、年と病気のせいでわたしが甘く接しているからだ。一年前までは、わたしになにかを催促されることの怖さを知っていた。今は催促しまくる。犬はかようにつけあがる。
 ワルテルの口から涎がどばどばと溢れてきたので、やっとステイを解いてやる。何度も派手なゲップをしながら、ワルテルは食器に鼻を突っこんですべてを平らげた。
 昨日から、焼き魚が食べたくてしょうがなかった。なにを食おうか? 秋刀魚の塩焼きがいい。だったらどこへ? 「藤村」だろう。というわけで、犬たちに留守番を命じて藤村に向かった。
 鳥つくね、シシトウ、椎茸の串焼き、モズク酢、焼き秋刀魚。生ビール一杯に、芋焼酎のロックを2杯。最後にお握りを頼もうかどうか迷いながら秋刀魚を食べていると、唯川大姐が店に入ってきた。
「馳君、食事終わったら隣に来ない?」
 隣というのはカラオケパブの「たかくら」のことだ。唯川夫婦は毎晩(週に4日?)、そこで夫婦仲良く盃を交わしている。そろそろ人恋しく思っていたところでもあるので、わたしは頷いた。秋刀魚を食べ終えると勘定を済ませ、隣に移動する。時間は7時半。店内に客の姿はない。カウンターに腰を据えている唯川夫妻の横に座り、ウィスキーの水割りを飲みながら、葉巻をふかす。会話の中身は犬の話が7割、くだらない馬鹿話が3割。
 飲んでいる最中、店のオーナーがキノコの詰まった籠をぶら下げてやって来た。見たこともないキノコばかり。今日、山に入って取ってきたのだという。中にはどう見ても毒キノコだろうという蛍光色が入ったような赤いキノコもあった。しかし、どれも食べられるらしい。
「食べてみる?」
 オーナーは挑発的に笑った。食わいでか。「やめてよ、馳君」という唯川大姐の言葉を無視して、わたしはこくりと頷いた。腹は一杯だが、新しい食べ物を目の前に出されたら、それが自分の許容範囲を超えるグロテスクなものでない限り、食べずにはいられないのだ。
 しかし、唯川大姐がなぜ止めようとしたのかはすぐにわかった。まるでキノコのフルコースを頼んだとでもいうように、次から次へと皿が運ばれてきたのだ。松茸とタマゴ茸(?)の焼き物。それから、名前も思い出せない各種キノコを湯がいたもの。ヤマドリ茸というキノコの白ワインと信州味噌のホイル焼き。大振りのキノコが多いので、ボリュームは凄まじい。松茸がまだ小さかったが、香りよくジューシーで抜群の味だったが、それ以外のキノコも驚くほど旨かった。
 もう食えない、キノコでこれほど腹が膨らんだのは初めてだと箸を置くと、またオーナーがにやりと笑った。
「そうだ。豚の豚足もあるんだ。忘れてた」
「もういいってば。食べられないよ」
 唯川大姐が悲鳴をあげた。唯川大姐は正しい。これ以上食えるか。しかも、豚の豚足だと?
 しかし、オーナーが持ってきた豚足を見た途端、わたしの気持ちは大いに揺れた。皮が醤油の色にしっかり染まって、美味しそうなことこの上ない。
「じゃあ、ひとつだけもらおうかな」
 つい、わたしは呟いてしまう。胃は悲鳴をあげているが、食欲は脳が司っているのだ。
 ぷるぷるした食感の豚足にかぶりつく−−煮汁の味とコラーゲンの食感が一体となって口の中に広がる。ああ、こんなに旨い豚足は食べたことがない。沖縄の足てびちーだってこれには叶わない。
 豚足は瞬く間に骨だけになってしまった。もう食えない。もう動けない。
「じゃあ、これ持って帰って。奥さんにも食べさせてやりな」
 余った豚足を頂いて、やっと我々は勘定を済ませることをゆるされた。一種の拷問だし、これが毎晩続くと死にたくなるが、たまにだといいだろう。なにより、キノコも豚足も驚くほど美味だった。唯川大姐が顔をしかめるのは、この歓待をしょっちゅう受けているからだ。
 唯川夫妻のタクシーに便乗させてもらい、別荘の近くで降りた。
 犬たちはわたしの帰宅を喜ぶ−−のはいいのだが、トイレシートの上にワルテルのウンチが大量に乗っていた。興奮して動き回るワルテルがそのウンチを思いきり踏みつける。
「あーーーーーーー」
 わたしは思わず声を出した。別に悪さをするつもりでしたのではないのだから、本当はこういう時に怒ったりしてはいけないのだ。それでも、反射的に声が出る。
 喜び、興奮していた犬たちが、わたしのその叫び声に散り、思い思いの場所でダウンする。なにか間違ったことをして叱られると思っている。
「ステイ。動くなよ」
 わたしは声が尖るのに気をつけながら、ウンチとワルテルの足の後始末をする。どうやら叱られるのではなさそうだと気づいたマージがまず最初に、ついでワルテルが散歩に行きたいとわたしをせっつきはじめる。
「わかったよ。ちきしょう」
 わたしは涙を堪え、犬たちと散歩に出る。ぱんぱんに膨れた胃が運動を歓迎していたが、口から出るのは溜息ばかりだった。







||   top   ||