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9月1日 軽井沢 49日目
寒さが緩んでいた。窓の外をちらりと見ただけで、撤退しかけていた夏が陣地を取り戻したことがわかる。
「あと一ヶ月か・・・」
呟きながらベッドを降りる。2ヶ月半は長いかと思っていたが、なんのことはない。日々はめまぐるしく過ぎていく。あと一ヶ月でこの別荘生活もお終いだ。
東京に戻ったら、マージはどうなるのだろう?−−不安が頭をよぎる。軽井沢での暮らしが楽しすぎて、リバウンドが来るのではないだろうか。7月に一度東京に戻った時のマージの物悲しげであらゆることに倦んだような表情が脳裏にこびりついて離れない。癌との戦いは免疫力との戦いでもある。日々が楽しければ免疫力はあがり、つまらなければ下がる。
不安を振り払いながら散歩に出る。今日は犬たちもクールコートを着用だ。朝が早いせいで空気は清々しいが、いずれ、暑くなることを予感させる。
例によってスポーツパークの芝は朝露に濡れていた。しかし、犬たちはそんなことにかまいはしない。表情を緩め、目を輝かせて歩き回り、走り回る。
そろそろ人も車の数も減ってきたので、そのうち北軽井沢にでも連れていってやろうか。
澄んだ空気を吸いながら、わたしはぶんぶんボールを投げ、マージとのろのろした追い駆けっこをし、たまにワルテルとも追い駆けっこをした。昨日のキノコのフルコースと豚足が忘れられない。食べた分のカロリーを消費しなければ。
しかし、マージより先にわたしはくたびれてしまった。日頃の運動不足がずっしりと肩にのしかかっている。
「マージ、そろそろ帰ろうか?」
わたしの言葉を待っていたというように、マージは駐車場に足を向けた。ワルテルはグラウンドの隅っこでなにかの匂いを嗅いでいる。
「ワルテル、カム! 帰るぞ」
ワルテルは振り返り、マージが駐車場に向かっているのを見て、猛然と走りはじめた。もっと遊んでいたいけど、置いていかれるのは絶対に嫌だ−−そんな走り方だ。
自ら車に乗ったワルテルを思いきり褒めてやり、マージはわたしが抱えて後部座席に乗せる。車の中の空気まで清々しい。
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気持ちいい青空の下・・・なんでそんな顔してるんだ、マージ? |
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そうそう、そういう表情がおまえにはよく似合うよ。
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こちらは相変わらず元気なワルテル。
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* * *
酔いと苦痛に近い満腹のため、昨日の夜はスープを作ることができなかった。別荘に戻る途中、コンビニに立ち寄って無添加、無塩の野菜ジュースを買う。ご飯にジュースをかけ、レンジでチンしたサーモン、ヨーグルト、キャベツのみじん切り、すりゴマ、グレープシードオイル、各種サプリのご飯をマージに与える。ワルテルはドライとウェットのドッグフード、マージのサーモンの分け前を少々。今日はワルテルは催促をしなかった。
わたしは昨日のバゲットの残りにまたオニオン・ガーリックのペーストを塗り、牛乳と一緒に胃に流し込む。
あまりに天気がいいので洗濯をすることに。マージたちのシーツをまず洗い、ついでわたしの衣服や下着を洗う。管理人さんが駐車場に布団干し用のパイプを出してくれたので、そこに洗濯物を干した。これなら乾くのも早いだろう。
食器を洗い、日記を書いたりしているうちと、もう、昼食時だった。昨日「たかくら」でお土産にもらった豚足と焼き春雨をレンジで温め、昼食にする。空は「犬たちを連れてドライブにでも行きなさい」と囁いていた。泣きべそを浮かべる編集者たちの顔が脳裏で渦巻いていた。両方を架空の天秤にかけると、残念なことに編集者たちの方に傾いた。
わたしはなんと律儀な男なのだろう。舌打ちして、わたしはパソコンを立ち上げる。仕事をはじめる前のウォーミングアップにとネットを徘徊してバーニーズ飼い仲間のサイトを覗く。
7歳になる直前のバーニーズがマージと同じ悪性組織球症にかかり、この2週間苦しんでいることを知って唖然とする。ここのサイトを最後に訪れたのはいつだったか。マージより若い分だけ病気の進行も早く、苦痛も大きそうだ。頑張ってください−−エールを送る。同じ病気を患っている犬の飼い主として、アドバイスをしてあげたいのだが、いかんせん、症状に違いがありすぎる。
この病気はバーニーズに特に多く、遺伝性の疾患だということが判明している。治療法はない。悪い血筋をバーニーズを愛する人間が協力して、なくしていくしかないのだ。
おれのマージが、この愛らしい巨犬たちがなにをした!?
神などいないことを知りつつ、神を罵りたくなる。
* * *
3時過ぎにワルテルが目覚め、仕事をしているわたしにちょっかいをかけはじめた。しかたがないのでデンタルコングにレバームースを注入し、そちらに注意を向けさせる。熟睡していたマージも起きだしたので、マージにも別のコングを。
しめしめ、犬たちが静かになったと仕事を再開したのだが、5分ほどするとマージが唸り続けているにに気づいた。マージのコングをワルテルが舐めている。横取りしたわけではあるまい。マージがそんなことをゆるすはずがない。舐めているうちにコングがワルテルの方に転がっていったのだ。
「ワルテル、それはマージのだろう」
ワルテルからコングを取り上げ、マージに与え、しばし観察してみる。マージはすぐにコングを舐めはじめたが、コングはマージの意志に逆らって転がりはじめる。昔の機敏さがあればそのコングを手なり口なりで止めることができるのだろうが、今のマージには悲しいかなそれができないのだ。
わたしはコングが転がらないように手で押さえて舐めさせてやった。仕事ができない−−ああ、人生は苦悩の連続だ。
4時ちょうどに清水さんが、4時半前に連れあいと建築家がやって来た。暴れ回る犬たちをなだめ、わたしの車と清水さんの車に分乗して、わたしが買った土地に向かう。もちろん、犬たちも一緒だ。
土地を検分する建築家と連れあい、質問の受け答えをする清水さん、そして、わたしと犬たちはのんびりと土地周辺を歩いて回る。いつもと違う場所に来たことで犬たちは興奮していた。あちこちに匂いを嗅ぎ、良く伸びた(伸び放題)の芝を食べ、飽くことなく歩き回る。
「マージ、いいところだろう? 来年の今ごろにはここに家が建って、おれたち、そこで暮らすぞ。それまで頑張れるか?」
マージは一心不乱に草を食むだけだ。隣の区画で整地作業を行っていたため、ワルテルはリードをつけっぱなし。不満だろうが作業の邪魔をしたり、ブルドーザの下敷きにさせるわけにはいかない。
20センチほどの段差になっているところをマージが降りようとして、前脚から崩れ落ちた。わたしと連れあいがすっ飛んでいく。
「マージ、無茶しちゃだめだろう」
マージに無茶をしている自覚はないのだ。歩けると思っていたのに、足が動かずに倒れてしまった−−マージは悲しそうな目でわたしを見つめた。お腹の下に手を入れて抱き起こしてやる。
「気をつけなきゃな、マージ」
わたしはマージの頭を撫でた。気分が沈んでいくのを知られたくなくて、マージには顔を向けない。マージは一度、身体をふるわせ、何事もなかったかのように歩きはじめた。
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コングの中のレバームースを陶酔しながら舐めまくる。
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横取りしようとワルテルがやって来る。もちろん、マージにこっぴどく叱られた。
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ここが我々の土地。
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なぜかかなりお疲れのご様子。
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一旦別荘に戻り、犬たちの晩ご飯の支度をする。
マージにはケーナインヘルスと、煮込んだ馬肉と生の馬肉を半々。ワルテルにはドライのドッグフードと生の馬肉を少々。
清水さんの車をタクシー代わりにして、我々人間は南軽井沢に移動する。パン屋の浅野屋が経営しているフレンチレストラン「レストラン風雅」を予約しておいたのだ。
コストパフォーマンスの高いフレンチを食べ、ワインを飲みながら(フロアの係が危険不足の若者。これがなければこのレストラン、かなり気に入った)、建築家と家の話をする。どんな家にしたいのか、どんなふうに住むのか。なによりの懸案は、いつ、家が建つのか。
「12月までに基礎工事終わらせれば、冬に工事を続けることもできるんだけど、それには金がかかる。馬鹿らしいでしょう。設計も大急ぎでやらなきゃならないし」
「じゃあ、来年の春から建築はじめるとして、できあがるのはいつ?」
「うーん、早ければ8月はじめ。遅くても9月には住めるようになるよ」
家ができるまでの間も、こちらにアパートかなにかを借りてしょっちゅう来ようとは思っているのだ。いい物件が見つかれば、来年の9月までということで借りればいい。家がなくてもマージは軽井沢を満喫できる。
「じゃあ、それで行こうか」
わたしはいった。
* * *
食後はまっすぐ帰るつもりだったのだが、昨日のキノコ三昧の話をしたら、連れあいがどうしても「たかくら」に行きたいと騒ぎはじめた。その横顔はすでに酔いが深く進行していることを物語っている。こうなった連れあいの気分を挫くような行動に出ると、我が家には陰惨な空気が流れるようになる。
わたしは溜息を漏らしつつ、タクシーの運転手に軽井沢駅前に行くように告げた。
席について飲んでいると、唯川夫妻が江国香さんと編集者を引き連れてやって来た。人数が多かったので、我々とは別の席になったが、昨日も一緒に飲んだのだ。どうということはない。
例によって店のオーナーの大盤振る舞いで、今宵も焼き松茸がテーブルに並べられた。ああ、旨い。もう、このまま死んでもいいと思えるぐらい旨い。マージ、ワルテル、ごめんな。おれは食欲に簡単に負ける。おまえたちとおんなじだ。
10時半になったところで、わたしと建築家は腰をあげた。すっかり出来上がっている連れあいは唯川さんたちと飲みたいと駄々を捏ねている。こうなった連れあいの気分を挫く・・・以下同文。
酒乱を妻に選んだのはわたしだ。そのために降りかかる災厄は甘んじて受け入れなければならない。
唯川夫妻に連れあいを押しつけて、わたしと建築家は別荘に戻った。犬たちと散歩に出かけ、その後で、ふたりで白ワインを傾けながらずっと家のことを話し合った。
午前1時に床に就いたが、連れあいが戻ってくる気配はない。また朝帰りのパターンだろう。酒乱はともかく、彼女の内臓のタフさにはいつもいつも驚かされる。
「ワルテル、あれが帰ってきても吠えたりするなよ」
無駄と知りつつ、ワルテルにそう語りかけ、わたしは明かりを消した。
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