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9月3日 軽井沢 51日目
連れあいがシャワーを浴びている音で目が覚めた。昨日よりは快適だが、夏の反乱はまだ続いている。頭がどんよりと重い。3日続けての暴飲で内臓が弱っている。唸りながら何度も寝返りを打っているうちに目覚ましが鳴った。
8時にはゴルフ場に向かうという3人に(ヒラSはゴルフはせずに帰るらしい)別れを告げ、犬たちとスポーツパークに行く。
いつものように遊び、いつものように帰る−−車に乗せるために抱え上げた時、マージが「ヒン」と短い悲鳴をあげた。
「どこか痛かったか?」
マージの身体を触診してみたが、異常は見られない。マージ自身も、悲鳴をあげたことを忘れたようにけろっとしている。心配はないと判断して、帰途についた。
別荘の駐車場で車から降ろす時はいつも以上に注意を払った。マージは悲鳴をあげもせず、痛がる素振りも見せない。だが、駐車場から別荘に向かう途中で、マージが動かなくなった。
「どうした、マージ?」
声をかけてもマージは凍りついたままだ。慌てて駆け寄る。前に進む意志はあるのだが足が出ない、動かない−−そんな感じでマージは動けずにいた。
「足が痛いのか? 抱っこするか?」
マージは不安そうな目をわたしに向けている。身体の変調に怯えている。わたしはマージの脇の下に腕を入れ、少しだけ身体を浮かせてやった。足の位置が変わればまた歩けるようになるかもしれない。歩けなければ、そのまま病院に直行だ。
だが、マージは再び歩きはじめた。辛そうではあるが、苦しそうではない。
「マージ、無理するなよ。ゆっくりでいいからな」
何度も声をかけながら、別荘までのわずか20メートルほどの距離を歩く。マージは止まることなく歩き続けた。
別荘に戻ると、マージはさっさと横になった。呼吸も荒くはないし、やはり、苦しそうでもない。
朝ご飯の支度を初めて、しかし、マージの調子がおかしいことをわたしは確信した。いつもなら、キッチンの入口にやって来てご飯が出来上がるのを待っているのに、マージは横になったまま動かない。わたしを見ようともしない。ご飯の匂いを嗅ごうともしない。そんなマージは、かつて見たことがなかった。
「マージ、もうすぐご飯だぞ」
声をかけながらご飯の支度をすすめる。マージはそれでも反応しない。ワルテルはいつも通り、美味しい匂いに興奮している。
作り置きのスープにご飯、馬の挽肉、大根おろし、すりゴマ、えごま油−−できあがったご飯をいつもの場所に置き、マージを呼ぶ。
「マージ、ご飯できたぞ。おいで」
マージはやっと身を起こした。だが、ご飯の匂いを嗅いだだけでその場に伏せてしまう。
「どうした、マージ? 食べたくないのか?」
わたしは激しく動揺していた。ドッグフード時代は、夏場には食が細って量を食べなくなったことはある。だが、それでも食べられる分は必ず口に入れていたし、軽井沢に来てからは食欲が増すことはあれ、減退することなどなかったのだ。
ご飯の器を口もとに置いても、マージは食べようとしなかった。
「ちょっと待ってろ、マージ。好物のヨーグルト買ってきてやるからな」
ワルテルに食事を与え、わたしは別荘を飛び出した。自転車を思いきり漕いでコンビニに行き、ヨーグルトとプロセスチーズを買ってくる。ご飯にヨーグルトを混ぜ、また寝ているマージの口もとに食器を置いた。
マージは匂いを嗅ぎ、ご飯にかかったスープを舐めはじめた。良かった、食べてくれた−−そう思うのも束の間、マージはすぐに食器から顔を背けた。
「ヨーグルト入っても食べたくないのか?」
わたしはマージの身体に耳を当てた。心臓は正常に脈打っている。内臓が変調を来していることを示す音もなにも聞こえない。不安と恐怖に胸が締めつけられる。死にかけた犬は食事を取れなくなる−−その事実が頭の中を駆け回る。
「だめだ、マージ。まだだめだ」
支離滅裂なことを口走りながら、わたしは自分の朝食に用意していたパンを切った。それをマージの口もとに持っていく。
「ほら、大好きなパンだぞ。マージ、食べるだろう」
マージは頭を持ち上げ、パンの匂いを嗅ぎ、食べた。ほっとする。次のパンを差し出す。マージは食べる。次のパンも、その次のパンも。最後にプロセスチーズの塊をやると、マージはそれもぺろりと食べた。
「良かった・・・」
パンやチーズを食べたからといって安心はできない。だが、まったく食べられないわけではないのだ。望みはある。
今夜も食事を食べないようなら、明日、朝イチで医者に連れていこう。これが組織細胞治療による好転反応ならいいが、そうでなければ・・・。
前向きに物事を考えようと務めてはいるのだが、すぐに暗い影が忍び寄ってくる。
覚悟はできていると思っていた。だが、わたしはまだマージを失いたくない。軽井沢に建てる家で暮らすまで、マージにはそばにいて欲しい。
呆然としながらマージを撫でていると、ワルテルが「くぅん」と鳴いた。自分もパンをもらえると思って、ずっと待っていたのだ。
「ワルテル、ごめんな。パン、全部マージにあげちゃった。おれの食べる分ももうないんだよ」
わたしはワルテルを呼び、逞しい身体を抱きしめた。
「ワルテル、マージに頑張れっていってやってくれ。ずっと一緒にいてよって、マージに頼め」
ワルテルは尻尾を振ってわたしとのスキンシップを楽しんでいる。
わたしはワルテルの毛に顔を埋め、少しだけ泣いた。
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散歩から戻るとぐったりして動かなくなった・・・。 |
* * *
正午に清水さんが手付け金の領収書を持ってやって来た。そのまま、清水さんの車で中軽井沢の「華」という四川料理の店に行き、冷やし担々麺を食べる。なかなかの味。ペット可の貸別荘があるというので、見に行く。まだ住んでいる人がいるので外観をちらりと見ただけだが、家に入るのにマージが苦労することはなさそうで、検討リストに登録する。家賃が安いのも魅力だ。
別荘に戻り、マージの様子を見る。マージはわたしを出迎えて、すぐ横になった。苦しそうではないが、元気なわけでもない。
パソコンを立ち上げ、仕事をはじめたが、マージのことが気になってまったく進まない。
「ええい、くそっ」
結局、仕事は諦め、眠っているマージの頭の上でイネイト治療用のペンダントを回し続ける。
夕方の散歩の時間になって、マージに声をかけてみた。
「マージ、散歩に行くか? 行けるか?」
マージは起きあがって尻尾を振った。とりあえずほっとする。
散歩は短めに切り上げ、早めに晩ご飯の支度をする。ケーナインヘルスと鶏手羽だ。支度をしている最中から、マージはいつものようにわたしの足元にまとわりついた。食欲は復活しているのだ。いや、朝ほとんど食べていない分、空腹でしかたがないらしい。
いい匂いが漂ってくるのに、冷めるまで食べさせてもらえず、マージは何度も笛を吹いた。
「そうか、マージ。腹減ってるのか。もうちょっとだからな。たくさん食べろよ」
ご飯を食べてくれる−−たったそれだけのことが、これほど嬉しいとは考えたこともなかった。わたしは終始頬を緩めていた。その気分が犬たちにも伝わるのだろう、2頭ともずっとはしゃいでいた。
ケーナインヘルスが冷めたのを確認して、マージに与える。ワルテルにはドライのドッグフードに手羽先を二つだ。マージもワルテルもごりごりと骨を噛み砕きながら休む間もなく食べ尽くしていく。食べ終えたマージは水を要求した。これもまた珍しい。わたしは水を用意し、一気に飲み干すマージを見守った。
「もう大丈夫か、マージ?」
マージは尻尾を振る。良かった。本当に良かった。
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夕方にはなんとか復活。空腹だったのか、よく草を食べた。
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わたしの心配をよそに、頑張って歩く。
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マージ・・・心配かけやがって。
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ぼくのことも忘れないでよ。
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連れあいは6時前に帰ってきた。10数年振りのゴルフも、思っていたよりうまくこなせたようで上機嫌だった。だが、わたしが今朝のマージの状態を伝えると、彼女の顔も曇った。きっと、朝その場に居合わせていたら、彼女は泣き崩れていただろう。
豚足と中華風の肉団子、ポテトサラダ、キムチ、なめこのみそ汁で晩ご飯を食べる。ここのところ外食が続いていたのでことのほかお米が旨く感じる。我々の食事の間、マージはもしかするとなにかもらえるかもしれないと、ずっとわたしたちの動きを見守っていた。
食欲は完全に復活している。
食後は、お茶を飲みながらJリーグの鹿島対浦和をテレビ観戦した。ゴルフで疲れた連れあいが少し横になってくると寝室に消えたので、わたしはソファをひとりで占領し、やがて横たわった。身体はともかく、精神が疲弊していた。一日中、マージのことを心配して時間を潰していたのだ。
試合はお互いが責める意志を貫こうとしてエキサイティングだったが、目を閉じ、目を開けると、とうの昔に終了していた。9時40分。2時間近く眠り呆けていた計算になる。
「マージ、散歩行くか?」
わたしはまたマージに訊ねた。マージはもちろんというように尻尾を振った。ただし、夜は怖いからオシッコだけね。
マージのリクエストに応え、オシッコをすませた彼女をすぐに別荘に戻し、わたしはワルテルを連れて自転車での散歩に出た。20分ほどで戻ってくると、マージは深い眠りの中にいた。だが、わたしがおやつの袋を開けると即座に目を覚まし、起きあがって目を期待に輝かせる。
「マージ、この野郎、心配かけやがって」
わたしはマージとワルテルに微笑みながらおやつを与えた。
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