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9月4日 軽井沢 52日目
ワルテルがわたしの足で遊んでいる。鼻先でつついたり、額で押したり、顎を乗せたり。目覚ましを見ると6時半だった。声を出して叱る代わりに唸ってやると、ワルテルは居間の方に去っていった。
また寝たと思ったら、すぐに目覚ましに起こされた。ベッドの足元で寝ていたマージがその気配を察して早く散歩に行こうと鳴く。
食欲だけでなく、外出欲も復活しているようだ。そそくさと支度をしてスポーツパークに向かった。
ワルテルにはぶんぶんボールで遊ばせて、わたしは様子を注意深く観察しながらマージと一緒にゆっくりのんびり歩いた。
突然、ワルテルが駆け戻ってきてマージに体当たりした。マージは芝の上にくずおれた。昨日からわたしがマージのことだけを気にかけているのが不満だったのかもしれない。マージより自分の方が体力があるとわかりかけていることもある。しかし、これをゆるすわけにはいかない。
「ワルテル!!」
久々に大きな雷をワルテルに落とした。足元に呼び、リードをつけ、座らせて目を覗きこむ。
「いくらおまえでもまたマージに同じことをしたら、絶対にゆるさないぞ」怒気を込め、低く唸るような声で語りかける。「マージはおまえとは遊べないんだ。だからおれが遊んでやるんだろう。うちの中で、マージはおまえより上の存在だ。絶対に、それは変わらない。覚えておけ」
言葉の意味などどうでもいい。マージにちょっかいを出したらわたしが怒る。それも半端ではなく怒る−−そのことをわからせなければならない。
ワルテルはうなだれている。わたしと目をあわせようとしない。マズルを掴み、無理矢理わたしの目を見させる。
「わかったか、ワルテル?」
ワルテルはハンドをした。よろしい。とりあえずゆるしてやる。しかし、このまま何事もなかったかのように再び遊ばせてやることはできない。マージの体調もあるので、そのまま車に乗って別荘に帰った。
マージに戦いを挑んだら、わたしに叱られ、楽しい散歩もそこで打ち切られる。頭のいい犬だ。いずれ、そのことに気づくだろう。
マージはけろっとしていた。倒れた時にどこかを傷めた様子はない。なにかがあれば、わたしが守ってくれる−−マージはそう信じている。だから、わたしが叱っている間は、ワルテルを自分から叱ろうとはしない。すべてをわたしに委ね、安心しきっているのだ。
作り置きのスープにご飯、レンジでチンしたサーモン、各種野菜のみじん切り、すりゴマ、グレープシードオイル、ヨーグルト−−マージは旺盛な食欲を見せてすべてを平らげた。昨日の朝はよほど辛かったに違いない。次に注射を打ちに行く時に、血液検査を依頼してみようと思う。
ワルテルも元気に食事を終えた。
肩の荷が少しだけおりたような気がする。昨日のような精神状態が続けば、完全に仕事ができなくなる。
レトルトのお粥と梅干し、キムチで朝飯を食べて、わたしはパソコンを立ち上げた。昨日の遅れを取り戻さなければならない。
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完全復活・・・かな? |
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あ、ぶんぶんボールだ!
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おい、これはそうやって遊ぶものじゃないんだぞ。
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* * *
仕事の遅れを取り戻さなければならないというのに、11時過ぎに連れあいと犬たちを車に乗せて別荘を出た。バイパス沿いの「煙事」に行く。友人でもあるオーナー夫婦が来ているので、土地を買ったこと、その他諸々報告しなければならない。我々のことを心配し、いろいろと骨を折ってくれたのだ。
昨日より湿度も低く、「煙事」の広々としたデッキには気持ちのいい風が吹いていた。席につくと、スタッフが寄ってきてわたしに耳打ちする。
「オーナーが馳さんに食べさせたいもの持ってくるから、食事のオーダーはしないでくれといってます」
世界一の料理人がわたしのためになにかを運んできてくれるのだ。わたしに否やはない。アイス・カプチーノだけを注文し、葉巻に火をつける。
10分ほどでオーナー−−熊さんがやって来た。持ってきてくれたのは4種類のオードブル。どれも美味で感謝しながらいただく。おまけに店のメニューの「燻製ベーコンのオープンサンドセット」までご馳走になってしまった。わたしも連れあいも満腹だ。
食事を摂り、一緒に葉巻をくゆらせながら土地に関する報告をする。次なる問題は家を建てるためのローンをどこから借りるか。それに関しても、クマさんは親身に相談に乗ってくれた。
犬たちもクマさんにまとわりつく。つぶらな瞳で見つめれば、巨躯を誇るこの人が、いつだっておやつをくれることを知っているのだ。犬たちの願いはすぐに叶えられた。犬用のビスケットがどばどばと出てくる。昨日の食欲のなさなどとうに忘れたというように、マージはきちんと座り、涎を垂らし、クマさんの太い指に挟まれたビスケットに食いついていく。
「マージ、元気になって本当に良かったなあ」
クマさんは目を細めてマージを撫でる。マージは幸せそうだった。
1時を過ぎたところで、連れあいをその場に残し、わたしと犬たちだけで帰途についた。気持ちのいい風に吹かれて、クマさんたちといつまでもだらだらとお喋りに興じていたかったのだが、仕事がわたしを待っていた。
別荘に戻り、パソコンに向かう。犬たちはあっという間に眠りに落ちていた。イレギュラーな外出とたくさんのおやつ−−きっと、幸せな夢を見ているのだろう。
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きゃーっ、おやつがもらえるところよ!
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今日はなにをもらえるんだろう・・・か
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お、お、おやつ・・・かは、は、早くちょうだい。
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見よ、この真剣な眼差し。
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ああ、美味しかった。
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4時前に唯川大姐からメールが来た。
「例の松茸と天然鮎と天然うなぎの会、本日6時より『藤村』でスタート」
おお、ここ数日気温が高かったのでどうなることかと思っていたのだが、「たかくら」のオーナーは頑張って松茸を調達したのだ。今日は食いまくるぞ。
うきうきしながら仕事を続け、4時に終える。「煙事」で2時間近く過ごしたせいでマージがお疲れのようだった。スポーツパークに行くのはやめ、敷地内を散策させる。10分ほどでマージだけを別荘に戻し、わたしはワルテルと自転車に乗った。夜よりは長い距離を走らせる。今宵は泥酔している可能性が高いので、今のうちに体力を奪っておく計画だ。ワルテルはそれにまんまとはまり、嬉しそうな顔をしながらどこまでもどこまでも走り続ける。
マージの晩ご飯はケーナインヘルスと豚の肉付き軟骨を一緒に似たもの。ワルテルは軟骨少々とドッグフード。「煙事」でたらふくおやつを食っていたので、量は少なめにする。
シャワーを浴び、犬たちに食事を与え、わたしと連れあいは別荘を出た。
6時開始のはずが、オーナーが姿を現したのは6時40分すぎだった。だが、だれも文句はいわない。オーナーが携えてきた松茸は大小合わせて20本以上あった。天然鮎は普段目にするものより大きく、天然鰻はウツボかと見まごうほど巨大だった。
テーブルに七輪が置かれた。巨大な松茸の泥を落とし、縦半分に裂いて七輪に乗せる。やがて、高貴な香りが花開き、我々の胃が鳴りはじめる。焼き上がった松茸をさらに細かく裂き、スダチをかけ、口の中に放り込む。松茸の香りが口から鼻に抜ける。分厚く弾力があり、ジューシーな肉が歯で噛むたびに踊り、くねった。
「ああ、うめっ」
言葉は出てこない。焼き上がった松茸を次から次へと食べていくだけだ。大きな松茸をひとり3、4本は食べただろうか。松茸だけで満腹になったことなど、当たり前だが経験したことはない。
松茸の次は天然鮎の塩焼きだ。これまた香り高く、見もジューシーで旨いことこの上ない。その間にも鶏の串焼きだのなんだのが出てきて、この時点でわたしは鰻を諦めた。とてもではないが食いきれない。巨大な鰻は「藤村」の天然水で満たされた水槽に放たれ、まだしばらく生き続けるという。鰻は別の機会にさせてもらおう。
最後に出てきたのは松茸ご飯だ。いや、ご飯松茸といった方が性格か。馬鹿じゃないのかと呟きたくなるほどの量の松茸が投入されている。出汁と松茸の香りが混ざりあい、絶妙のブレンドとなって満腹になっているはずの胃を刺激する。
ご飯松茸を二膳、わたしは食べ尽くした。もう、動けない。それでもご飯松茸は残っている。今宵集った人間が、それぞれ余ったご飯松茸をお握りにして持ち帰ることになった。さらに、信州産だという巨大なニンニクもいただいた。
いやはや、いやはや、師匠(オーナーのあだ名)、ゴチになりました。
食後は「たかくら」に移動して酒を飲み続ける。どうしてそうなったのかはわからないが、カラオケで「全国ランキング」というものに挑戦することになり、わたしはブルーハーツの「青空」を歌った。洒落のつもりだったのだが、出てきた結果は全国で8位。きっと、日本全国で10人ぐらいしか歌っていないのだろう。いい歌なんだが。
途中、アロー建設の清水さんが乱入してきたが、唯川大姐を紹介すると同郷(石川県)だということでローカルな話題に突入し、盛りあがっていた。
11時前に勘定を済ませ、唯川夫妻が呼んだタクシーに便乗させてもらった。夕方過ぎから雨が降りはじめていたのだが、深い霧が雨に取って代わっていた。タクシーのヘッドライトもその霧を切り裂くことができず、50メートル先の信号がぼんやりと浮かびあがって見えるだけだった。
いつもならベランダの窓際に寝そべってわたしたちの帰りを待ち、気配を察するとやかましく吠えたてるワルテルだが、今夜は静かだった。夕方の自転車走でくたびれきっていたのだろう。ドアを開けるとやっと我々の帰宅に気づいた。
別荘の敷地内を軽く散策しただけで散歩は切り上げた。ワルテルも、雨の時は散歩は短いと理解しはじめているようで、不満の素振りを見せない。
「マージ、今日も元気だな? 明日も元気でいろよ」
わたしはマージに語りかけながら、イネイト治療のペンダントを回した。まだ胃はぱんぱんで、わたしは幸せだった。
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