軽井沢日記
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9月14日 軽井沢 62日目

 今朝も暖かい。目覚ましが鳴るのと同時に目覚め、犬たちに促されて散歩の支度をする。
 2ヶ月半の滞在は長いと思っていたが、残りはもう2週間しかない。時間が過ぎていくことの、なんと速いことか。
 敷地の中を駐車場に向かっていると、一棟の別荘から犬の吠える声が聞こえた。大型犬の鳴き声に興味を惹かれ視線を転じると、バーニーズが吠えていた。
「マージ、ワルテル、バーニーズがいるぞ」
 わたしは2頭を引き連れて、その別荘に近づいた。ワルテルがけたたましく吠える。部屋の中にいる飼い主が我々に気づき、そのバーニーズを外に出してくれた。まだ線が細く、初々しい。
「何歳ですが?」
「七ヶ月の女の子です」
 そのバーニーズはワルテルと同じで内弁慶だった。部屋の中からはやかましく吠えるが、外に出てマージたちと対面すると尻込みし、尻尾を下げる。わたしが撫でようとすると、すっと飼い主の背後に下がっていく。
 マージは匂い嗅ぎの挨拶をさっさと済ませたが、ワルテルは同年代の牝の匂いに落ち着きを失っていた。挨拶をしたい、遊びたい−−なのに、無闇やたらに吠えるばかりで相手を怯えさせてしまう。色恋の道はワルテルにはまだ遠い。
 マージが車に乗りたがっているので、名残惜しみつつ別嬪さんと別れ、スポーツパークへ。今日も少々蒸し暑い−−東京の人間には贅沢だと叱られるだろうが、こちらの気候に慣れてしまった身体には、湿度で80%、気温で22、3度を超え、さらに日光が荷担すると暑く感じてしょうがない。
 それはマージも同じようで、10分ほど歩き回っただけでばててしまった。いつものように、マージだけ車で休ませ、わたしはワルテルと訓練を兼ねた遊びをする。ステイを解かれて駆けてくるワルテルの息づかいもいつもより荒い。
 案の定、ワルテルは下痢をした。生肉はだめなのだ。東京にいる時は平気だったのに・・・不思議だが、現実は現実だ。これより以降、ワルテルには生肉を食べさせるのはやめだ。健康のためには食べさせたいのだが、下痢をするのなら意味はない。
 別荘に戻り、例の別嬪さんの姿を探したが、散歩に出かけたようだった。
「残念だな、ワルテル」
 ワルテルは何度も別嬪さんが泊まっている別荘を振り返っていた。
 マージの朝ご飯は作り置きのスープに二〇穀舞入りご飯、ブロッコリのスプラウト、各種野菜のみじん切り、子持ちシシャモ、ヨーグルト、すりゴマ、グレープシードオイル、各種サプリ。ワルテルはご飯の代わりにドッグフードと他のものを少しずつ。
 ゴルフ行きの支度をしている連れあいと米山を尻目に、わたしはシリアルの朝食を取る。
  8時半に清水さんがやって来て、3人はゴルフに出発した。
   
マージの朝ご飯
マージの朝ご飯


* * *

 昼ご飯をどうしようかあれこれ考え、今日からダイエットを実施しようとマツヤに行った。お握りをふたつばかり買ってくるつもりで。ところが総菜コーナーに「ロコモコ丼」という弁当を見つけてしまう。ご飯の上にハンバーグと目玉焼き、フレンチフライが載ったものだ。見るからにカロリーが高そうで、ダイエットを決心した人間の食べるものではない。だが、なぜか手が伸びて・・・ロコモコ丼を買って帰る。
 いかんなあ。ロコモコ丼は予想していた通り、可もなく不可もない味だった。
 そのまま仕事に突入する。別荘の敷地では芝刈りがはじまっていて、草刈り機の音にワルテルが落ち着きを失って、わたしの仕事を邪魔する。
「ええい、おまえも男だったらどしんと構えてみんかい!」
 苛立ちを言葉に変えてぶつけてみても、ワルテルは馬耳東風。窓辺に行って作業を見つめては、外でなにかやってるよとわたしに報せに来る。
 参ったな、もう・・・。
 あまり捗らないまま、4時に仕事を切り上げ、散歩の支度をする。
「マージ、散歩に行こうか」
 マージに声をかけた。マージは起きあがろうとしたが、前脚と後ろ脚を滑らせてうずくまってしまった。
「どうした、マージ? 立てないのか?」
 マージは必死で立とうとしているが、脚が滑ってどうにもならない。滑り止めのタイルカーペットもまったく役に立っていないのだ。見るに見かねてマージを抱きあげた。
「痛いのか、マージ? 苦しいのか?」
 だが、マージは散歩に行ける喜びに目を輝かせていた。筋力が落ち、脚が滑り、立てない。だが、前回のように気力までが衰えているわけではない。
「とにかく、散歩に行こうか。オシッコしたいもんな」
 外に出てマージをそっと降ろす。マージは一度だけよろめいたが、自力で踏ん張って、歩きはじめた。土の上ならまだ問題はないのだ。ワルテルのリードを短く持ち、マージに近寄れないようにしながら駐車場に向かう。マージの歩みは遅いが、懸命に歩いていた。
「マージ、今日はここで遊ぼうか?」
 そういってみたが、マージはとにかく駐車場を目指していた。車に乗って、スポーツパークに行きたいのだ。マージの意志を尊重してやることにする。
 スポーツパークでも、マージは何度もよろめいた。アスファルトと違って土の上には微妙なアンジュレーションがある。それがマージの前進を阻むのだ。めげずに歩き続けるマージの目的はジャーキーだ。ジャーキーを食べたいがために、辛いのに必死でわたしの後を追ってくる。
「わかった、わかったってばマージ。そんなに頑張らなくたって、好きなだけジャーキーやるよ」
 わたしはいたたまれなくなってしゃがんだ。マージがやって来るのを待つ。ワルテルもわたしの傍らで、ジャーキーをもらえるのを待っている。
 マージはわたしの指ごと噛み千切りそうな勢いでジャーキーにかぶりついた。指が痛い。だが、そんなことはどうでもよかった。
「ほら、まだあるからな。もっと食べろ、マージ」
 わたしは持ってきただけのジャーキーをマージとワルテルに与えた。マージはすべてを食べ尽くし、それでももっとちょうだいとわたしを見上げる。
「食欲はあるんだな、マージ。家に帰ったら、美味しいご飯作ってやるからな」
 わたしはマージを車に乗せた。外にいた時間は5分というところか。充分だ。
 ワルテルと10分ほどぶんぶんボールの引っ張りっこで遊び、帰途につく。
「ワルテル、遊び足りないだろうけど我慢してくれな」
 ワルテルは素直にわたしに従う。ワルテルが素直な犬で良かったと思う。ただ一緒に生活しているだけでアルファ(ボス)になれる自分の性格に感謝する。
 別荘に戻ると、マージは床に伏せたまま動かなくなった。だが、目には強い光がある。前のように、ご飯を食べないということはないだろう。粉チーズを入れた水を持っていくと、マージは伏せたまま水をすべて飲み干した。ご飯も同じようにしてやればいい。
 滑り止めになればと室内用の靴をマージの前脚に履かせてみた。だが、やはりマージの脚は滑る。根本的な対策が必要だった。
 ケーナインヘルスと馬肉を煮込む。ワルテルにはドッグフードとカテージチーズだ。
 ケーナインヘルスが冷めて、オイルやサプリの用意をしていると、マージが脚を何度も滑らせながら強引に立ち上がった。食欲にかける執念は凄まじい。だが、そこまでしなくてもいいのだ。わたしは泣きたくなって、急いで食器をマージの前に置いた。マージは脚を滑らせながらがっつく。わたしはマージの上に跨って、お腹を両手で支えてやった。ワルテルが自分のご飯をくれといって吠えた。
「マージが終わるまで待て、ワルテル。頼む」
 少しでも力を抜けば、マージのよっつの脚はずるずると滑っていく。昨日まで・・・いや、今朝まで自分の足でしっかり立っていたのだ。短時間でなにもかもが変わってしまった。
 食べ終えたマージを寝かせ、ワルテルにご飯を与える。
「ごめんな。よく待ったな。たくさん食えよ」
 ワルテルを撫で、マージのところに戻った。マージは満足そうな表情で口の周りを長い舌で舐めている。
「大丈夫か、マージ?」
 マージは尻尾を振り、眠りに就くべく態勢をずらした。滑る場所で立てないだけで、それ以外に問題はなさそうだ。
 マージの横に腰を降ろしてマッサージを施してやる。食べ終えたワルテルがやって来て、わたしに身体をくっつけて横たわった。2頭を撫でながらぼんやりしていると、連れあいたちがゴルフから戻ってきた。
「どうしたの?」
 呆然としているわたしを見つけて、連れあいが叫ぶ。
「マージが立てなくなった。明日、ホームセンターに行って、滑り止めになるようなもの見つけて来なきゃ」
 連れあいはゴルフバッグをその場に置いて、マージの顔を覗きこんだ。
「食欲は?」
「ある。晩ご飯、全部食べた」
「だったら大丈夫よ。しゃきっとしなさいよ」
「そうだな」
 わたしはのろのろと腰をあげた。

* * *

 連れあい、米山、清水さんと中軽井沢の中華レストラン「華」に晩飯を食べにいった。前回はランチで「冷やし担々麺」を食べただけだが、他の料理も平均点以上のできだった。ゴルフの話題で盛りあがる3人を尻目に、わたしの脳裏はマージのことで占められ、心ここにあらずだった。
 8時に別荘に戻ると、マージがわたしを迎えるために立ち上がろうとしていた。
「ステイ、マージ。そのままでいいから」
 慌てて駆け寄り、立ち上がらなくてもいいのだとわからせてやる。
「わたし、帰るのやめようか?」
 連れあいがいった。米山と一緒に東京に戻る予定なのだ。
「大丈夫だよ。マージ、食欲もあるし・・・癌がどうこうじゃなくて、筋力が落ちて立てなくなってるだけだからさ。なにかあったら連絡するから、その時帰ってくればいいさ」
 連れあいがマージを心配する気持ちはわかるが、東京には仕事が待っている。帰らないわけにはいかないのだ。
 わたしはマージの脇に座って、イネイト治療用のペンダントを回した。
「じゃ、行ってくるね。なにかあったらすぐに電話してよ」
 連れあいは米山と一緒に出ていった。しばらく会えなくなるとは知らずに、マージもワルテルも食後の睡眠を満喫していた。

* * *

 夜の散歩も、マージを抱きかかえて外に出た。マージはそそくさとオシッコを済ませた。そのまま別荘に帰りたがるのかと思ったが、その素振りを見せず、5分ほど敷地内を歩き回った。そして、突然立ち止まり、動かなくなる。脚が動かないのではない。もう散歩は充分だと訴えている。
 玄関口でマージの足裏を拭き、滑り止め用のワックスを肉球に塗る。気休めにしかならないことはわかっているが、やらずにいられない。ワックスを塗りおえると、マージを抱きかかえ、マージの一番のお気に入りの場所に横たえてやる。
「マージ、ワルテルとちょっとだけ出かけてくるからな。このまま寝てろよ」
 マージの頭を一撫でし、待ちあぐねているワルテルともう一度外に出た。
「マージが元気になったら、ワルテルだってもっと遊べるのになあ」
 いつものコースを自転車で周回して、別荘に戻った。自転車置き場に自転車を止め、ワルテルと一緒に別荘まで駆ける。
「マージ、大丈夫かな?」
 大丈夫だよ−−ワルテルは盛大に尻尾を振っている。ワルテルのいうとおりだった。マージは熟睡していた。我々が帰宅した気配に一瞬、顔をあげ、また眠りに就く。
 シャワーを浴び、赤ワインを開ける。葉巻を一本灰にして、眠る支度に取りかかった。マージを抱きかかえ、わたしのベッドの脇に横たえる。どうせ、無理矢理立ち上がって歩いてくるに決まっているのだ。それなら、最初からいたい場所にいさせてやればいい。
「おやすみ、マージ、ワルテル」
 布団に潜り込み、明かりを消した。目を閉じながら祈る−−明日の朝には、マージが元に戻っていますように。


なんとか踏ん張って立っているが、脚がまっすぐ伸びない……
なんとか踏ん張って立っているが、脚がまっすぐ伸びない・・・
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室内用の靴を履かせてみても焼け石に水。
室内用の靴を履かせてみても焼け石に水。
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カメラマンの北川さんからメールで写真が送られてきた。
カメラマンの北川さんからメールで写真が送られてきた。
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さすがにプロの撮る写真はひと味もふた味も違うなあ。
さすがにプロの撮る写真はひと味もふた味も違うなあ。






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