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9月15日 軽井沢 63日目
祈りは通じなかった。マージは自力では立てず、わたしに抱きかかえられて居間に移動した。せめてもの救いは気温が低いことだ。一晩の間に、秋は夏を完膚無きまでに叩きのめしたらしい。
なんとかマージを立たせ、靴を履かせようと試みたがすぐに諦めた。靴を履く時は3つの脚で立つことになる。今のマージには無理だった。土の上を歩くだけなら怪我はしまい。
車でスポーツパークへ。またもマージはジャーキーへの執念を見せて歩き続ける。ゆっくりゆっくり、10分ほど歩かせてからマージを車で休ませる。さらに10分、ワルテルと遊んでから帰途につく。
マージの朝ご飯は野菜ジュースに二〇穀米入りご飯、メバチマグロのぶつ切り、ヨーグルト、各種野菜のみじん切り、オリーブオイルに各種サプリ。ワルテルにはご飯の代わりにドッグフード。その他物はマージの半量。
またぞろ、マージは脚を滑らせ、何度も転びながら立ち上がろうともがいている。わたしはマージを抱き起こし、お腹を手で支えてやる。ワルテルには先に食事を与えたから、今日はマージに専念できる。
マージは一気に完食した。食欲があるかぎりは、わたしも安心していられる。問題は、わたしが仕事で留守にしなければならない時だ。連れあいひとりでマージの面倒を見きれるだろうか・・・。
わたしはシリアルの朝食を取り、昨日のことを思い出しながら日記を書く。
10時に別荘を出て、中軽井沢のホームセンターに向かった。カーペットでもなんでもいい。別荘の床に敷いて、マージの脚が滑らない物を目を皿のようにして探す。結局、カーペットの類にはわたしの目的に叶う物は見つからず、溜息を漏らしながらカー用品のコーナーに移動した。ゴム製のフロアマットが目にとまった。ゴムならば滑らないはずだ。フロアマットにはカーペットのような大きなサイズの物はないが、マージの行動範囲に敷けるだけの分量を買えばなんとかなるかもしれない。
売り場に置いてあるだけのフロアマットを買って別荘に戻った。マットを床に敷き、滑り具合を確かめる。これなら大丈夫ではないか・・・マージをマットの上に横たえ、声をかけてみた。
「アップ」
マージはわたしを見上げ、それから身を起こそうと前脚に力を込めた。辛そうだったが、なんとか自力で立ち上がる。
これなら一安心だ。マットから外れた場所ではまだ立てないだろうが、そこはわたしが気を配ってやればいい。
「よし、いい子だ、マージ」わたしはマージを再び横たわらせた。「新しい家ができたらな、マージ。そこの床は絶対に滑らないぞ。だから、それまで頑張るんだぞ」
眠りに就いたマージを横目で見ながら、わたしはソファに崩れ落ちた。精神的にかなり疲弊している。
「今日は仕事は無理だな・・・」
呟きながら煙草に火をつける。経験からわかっているのだ。こんな精神状態の時はろくな文章が書けない。どうしたものかと思いながら、わたしはせわしなく煙草をふかした。
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| せっかくゴムマットを敷いたのに、なぜそんなところに? |
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| 代わりにワルテルが・・・意味ねえ。 |
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| 昨日よりは調子がよさそうだったのだが・・・。 |
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昨日マツヤで買っておいたマグロのなめろうとポテトサラダで昼食を取る。相変わらず仕事ができる精神状態ではなかった。ご飯の匂いに誘われて起きだしてきたワルテルとしばし戯れた。ワルテルが興奮すると、マージが唸りはじめる。わたしはマージの横に移動して、ワルテルと川の字になって横たわった。
「たまには仕事休んでこうやってるのもいいか」
マージとワルテルはその通りだというように尻尾を振った。
* * *
夕方、おそるおそるマージに声をかける。
「散歩の時間だぞ。立てるか、マージ?」
マージはゆさゆさと尻尾を振り、なんとか立ち上がった。だが、すぐにくずおれそうになる。脇の下にタオルを通し、上から引っ張って支えてやった。外に出れば、歩行に問題はない。やはり車に乗りたがるのでスポーツパークに向かう。マージの調子が悪そうなら、車の中で休ませてやればいい。
マージはゆっくりと、しかし、しっかりした足取りで歩いた。これなら一安心だと頬を緩めていると、2頭のゴールデンを連れた初老の夫婦が現れた。旦那さんの方はキャップを被り、軍手をはめて、一見、いかにも犬の扱いに慣れているような外見だったが、2頭のゴールデンはリードを思いきり引っ張って、てんでばらばらに行動していた。飼い主を舐めきっている。多分、あの夫婦に飼い犬をコントロールすることは無理だろうと判断してワルテルを呼び、リードをつけた。ワルテルが吠えそうになるのを制御する。
ゴールデンたちはドッグランに入っていった。それなら、大丈夫だ。ワルテルのリードを放し、ゴールデンたちに気が向きそうになるのをぶんぶんボールとジャーキーでコントロールして少しずつドッグランから離れていく。
マージも、ジャーキー食べたさに頑張ってついてくる。もう少し歩かせたら車で休ませよう−−ワルテルが低い声で吠え、ドッグランの方に駆け出していった。
2頭のゴールデンがグラウンドに出てきていた。飼い主はドッグランの入口が2箇所あることに気づかなかったらしい。2頭は開いている方の入口から、飼い主たちの制止の声を振り切って出てきたのだ。2頭はじゃれ合いながら駆けていた。ワルテルはその仲間にくわわりたがっている。わたしが声をかけると立ち止まるが、身体がむずむずしてまた2頭に向かって駆けていく。
飼い主がドッグランから出てきて、待てと声をかけるが、2頭のゴールデンは立ち止まる素振りすら見せない。どうして犬の飼い方がわからないのだろう。どうして犬を飼ったのなら、飼い方を学ぼうとしないのだろう。
「ワルテル、カム!!」
わたしは大声で叫んだ。ワルテルはわたしを見、2頭のゴールデンを見、もう一度わたしを見て、のろのろとした足取りで戻ってきた。あの2頭と遊びたいけど、わたしに呼ばれたのなら仕方がないという態度だ。戻ってきたワルテルを思いきり褒めて、リードをつける。
5分ほどすったもんだした挙げ句、飼い主はやっと2頭にリードをつけることに成功した。犬と楽しく遊びたいのなら、犬をきっちり制御できるようにしなければならないのに。それができた方がよっぽど楽しいのに、彼らはそれを知らない。知ろうともしない。ただ可愛いからと犬を飼い、犬をスポイルし、犬から本当の楽しみ、喜びを奪う。ご飯をもらう時、散歩に連れていてもらう時、2頭のゴールデンは喜びを表現するだろう。だが、リードのくびきから放たれた彼らの眼中に飼い主の姿はない。彼らは同居人ではあっても、自分たちのボスではないのだ。
2頭はまたドッグランに戻っていった。疲れの見えはじめたマージを車で休ませ、ワルテルとグラウンドで遊ぶ。
「ワルテル、あいつらとじゃなくて、おれと追い駆けっこしようぜ」
わたしは走った。ワルテルが追いかけてくる。ワルテルはわたしとの追い駆けっこを心の底から楽しんでいた。たとえ、わたしの体力がすぐに尽きても、わたしと遊べることを喜んでいた。
* * *
ケーナインヘルスと馬肉の晩ご飯を、マージは脚を滑らせながらがっつき、すぐに倒れ込んだ。腹を抱えて立たせてやり、そのままの姿勢で食べ終えるまで支えてやる。食欲は旺盛だが、前肢、後肢にうまく力が入らないことは明白だった。食べるという意思だけがマージを立たせている。
ワルテルのご飯はドッグフードにカテージチーズを混ぜ込んだもの。こちらはなんの問題もない。
食べ終えたマージの口を拭き、ゴムマットの上に横たわらせてから、自分の食事の支度をはじめた。ソーセージを焼き、ナメコのみそ漬けというものとキムチでご飯を食べる。
食事の後は、小一時間ほどマージの頭上でイネイトのペンダントを振り回した。不安を表に出さないように務め、微笑みながら半分眠っているマージに語りかける。
「大丈夫だからな、マージ。おれがいるから。いつもそばにいるからな」
8時を過ぎたあたりから雨が降りはじめた。マージの調子が良くないというのに雨か・・・憂鬱がましていく。
10時まで雨がやむのを待ってみたが、その気配はなかった。諦めて散歩に出る。マージはマットの上でも自力で立つことができなかった。寝たままの姿勢でレインコートを着せ、抱え上げて外に出す。マージはなんとか自力で立ったが、辛そうだった。おしっこが終わったら、すぐに別荘に戻そう。
だが、マージはなかなか用を足そうとしない。
「マージ、おいで。早くオシッコして戻ろう」
マージの後を追おうとするワルテルをリードでコントロールしながら、マージを促す。マージはいつもオシッコをするあたりでうろうろしているだけだ。やがて、立ち止まり、じっとわたしを見つめた。
「どうした、マージ?」
わたしが声をかけるのと同時に、マージは真横に倒れた。前に崩れるのでも、尻餅をつくのでもなく、両脚を突っ張るようにして横倒しになった。
「マージ!!」
慌てて駆け寄り、マージを抱きかかえた。
「大丈夫か?」
マージは照れくさそうな表情を浮かべている。歩けないこと、倒れてしまったことにばつの悪い感情を抱いているようだった。
「心配するな、心配するな」
マージを抱えたまま別荘に戻る。床に横たえ、土で汚れた身体を拭うために雑巾を持ってくると、ワルテルがマージの後肢を舐めていた。ワルテルも心配しているのだ。わたしの怯えに気づいて、マージを気遣っている。
「いい子だな、ワルテル。少しだけ待ってろよ。マージを綺麗にしたら、オシッコとウンチに行こう」
丁寧に身体を拭き、マージをゴムマットの上に横たえてやる。
「びっくりしたな、マージ。でも、もう大丈夫だからな。ちょっとワルテル散歩に連れていってくるけど、すぐに戻るから。心配しないで待ってろよ」
本当はマージにつきっきりでいたかったが、ワルテルはまだオシッコもウンチもしていない。
「ワルテル、行くぞ」
ワルテルのリードを持って、雨に濡れるのもかまわず外に飛び出た。ワルテルが用を足し終えると、謝りながら別荘に戻る。
マージに異変は起こっていなかった。当たり前のことだが、ほっとする。粉チーズを入れた水を口もとに持っていったが飲もうとしない。人差し指を水に浸して、マージの口に押し当てる。マージは舌を伸ばしてわたしの指についた水(チーズ?)を舐めた。何度も繰り返す。マージがもういらないと意思表示するまで繰り返した。
連れあいに電話をかけて報告する。大丈夫だといってもらいたかった。ただその一言が欲しかった。連れあいは大丈夫だといった。マージはあなたと一緒にいたいんだから、まだ、全然大丈夫。明日軽井沢に戻ってくるという連れあいを制した。大丈夫、大丈夫−−自分に言いきかせる。
電話を切って、馬肉のジャーキーの袋を開けた。マージが首をあげる。ワルテルがわたしの脚に身体を押しつけてくる。マージはジャーキーを食べた。割り込もうとするワルテルに唸った。この元気があれば、まだまだ大丈夫だ。
何度自分に大丈夫といい聞かせただろう。
マージを懐に抱えるようにして床に横たわった。ワルテルも呼び寄せて、昼間と同じように川の字になる。
「マージ、今日はこうやって寝ようか。なにかあったら、すぐに起きるからな」
マージはわたしの胸に顔を押しつけ、目を閉じた。すぐに眠りに入る。ワルテルはしばらくわたしの脚にじゃれついていたが、やがてスイッチが切れたように眠ってしまった。
* * *
寒さと背中の痛さに目が覚めた。午前3時半。わたしが覚醒した気配に気づいて犬たちも目覚める。
「マージ、大丈夫か?」
マージは尻尾を振り、わたしの頬にキスした。心配しなくていいからベッドで寝て−−そういわれた気がした。マージを抱きかかえ、ベッドの足元に横たえる。寝不足や風邪で体力を失ったら、マージの面倒を見られない。そう思いながらパジャマに着替え、布団に潜り込んだ。狭いシングルベッドでなかったら、マージもベッドにあげたいところだったが、それは叶わない。
明かりを消す前に、マージもワルテルも再び深い眠りに陥っていた。
「おやすみ」
小声で告げて、わたしは目を閉じる。
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これも北川さんの撮ってくれた写真。 いつも撮影者がわたしだから、マージとの2ショットの写真は少ない。感謝。 |
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| これも北川さんの写真。ワルテル、頭が潰れてるぞ。
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