軽井沢日記
-
9月16日 軽井沢 64日目

 目覚ましが鳴ったが起きられなかった。寝不足が答えている。マージがオシッコを我慢しているはずだ−−そう思い至ってなんとか起きあがる。急いで散歩の支度をして、寝たままのマージの脇の下にタオルを通す。そっと引き上げてやると、マージは立ち上がった。
「昨日より調子はよさそうだな」
 マージの歩調にあわせて玄関まで進み、その先は抱きかかえて外に出る。マージはとことこと歩いてすぐにオシッコをした。軽快な歩みとは口が裂けてもいえないが、昨日のように倒れるということはないようだ。それでも、いざというときのためにタオルは手に持っておく。
 霧雨が降っていた。マージの体調もあるし、今日はスポーツパークは中止だ。別荘と駐車場を往復してみる。マージは車に乗りたがったが心を鬼にする。まだだ。もう少し様子を見てからでなければ、スポーツパークには連れて行けない。案の定、駐車場から別荘に戻る途中でマージの脚が止まりがちになった。頑張れ、頑張れと声をかけてマージに歩行を促す。自分で歩ける間は歩かせたい。手を貸すのは簡単だが、それではマージの筋肉がますます落ちてしまう。
 雨に濡れたマージの身体を丁寧に拭き、もう一度、ワルテルと外に出る。
「ワルテル、今朝は自転車な。雨が降ってるからあんまり長くは行けないけどさ」
 10分ほど、ワルテルを走らせ、別荘に戻る。
 昨日作っておいたスープ(トマト、キャベツ、エノキダケ、煮干しと干し椎茸の粉末)に二〇穀米入りご飯、ヨーグルト、豆腐3分の2丁、すりゴマ、各種野菜のみじん切り、ブルーベリー、グレープシードオイルに各種サプリ。マージは自力で立ち上がり、脚を滑らせることもなく食べきった。マージの食欲だけが頼みの綱だ。
 ワルテルにはドッグフードの他に、マージと同じ物を少しずつ。わたしはシリアル。
 10時になるのを待って、横浜のプレマ動物ナチュラルケアクリニックに電話をかける。羽尾先生にマージの状態を説明し、アドバイスを受ける。結局、足腰の衰えに効くというホメオパシーの薬を送ってもらうことになる。いつもいつも、ありがたい。
 電話を切ると、宅配便のお兄さんが来た。一昨日ネットで頼んでおいた犬用の靴下が届いたのだ。脚の底にあたる部分に滑り止めのゴムがついた靴下だ。気休めにしかならないが、ないよりはましだろう。早速、マージに穿かせた。靴下の効力を試してみたかったが無理をさせるのは嫌だった。マージはじっと靴下を見つめた。脱がせてよ−−無言の抗議だ。だが、わたしはその抗議を却下した。
 次いで、連れあいに電話でマージの様子を報告する。あれこれ話していると、やがて、マージが弱っているのは足腰のせいだけではなく、貧血なのではないかという可能性に思い至った。昨日のように動きが止まって真横に倒れる−−人間でも貧血で起こる。なぜそこに気づかなかったのか。
 電話を切って、マージの歯茎を見る。どどめ色で血の気を失っているのかどうかわからない。肉球に触れてみた−−冷たい。いつも暖かいマージの肉球が冷たくなっている。
 またも電話に飛びつき、菊池動物病院に電話し、貧血の可能性を聞き、血液検査を依頼する。午前の診察はは12時まで、すでに11時半を回っていた。3時半に予約を入れた。
 仕事はまったく手につかない。朝シリアルを食べたきりだが空腹も覚えない。だが、これからはマージを抱えたり降ろしたりすることが増えるだろう。体力がなによりも必要とされてくる。
 自転車で旧軽に向かい、「軽井沢創作料理(つくつくりょうり、と読むんだと)ロコロコ」というラーメン屋に行く。軽井沢で唯一まともなラーメン屋と評判の店だ。ネーミングのセンスはともかく、ラーメンはまともだった。
 さっさと別荘に戻り、マージにマッサージを施す。マージの身体は冷たかった。
 仕事などまったく手につかず、3時過ぎに別荘を出る。マージは駐車場まで歩く途中で下痢をした。内臓も弱っているらしい。わたしは歯を食いしばり、マージとワルテルを車に乗せて病院に向かった。
 検査の結果は「再生不良性貧血」。骨髄の組織がおかしくなって、自力で血を作れなくなっている。血液の数値は危急を要するとまではいわないが、かなり悪かった。予想どおりだ。いや、なぜもっと早くに気づいてやれなかったのか。足腰が衰えたのだとばかり思いこんで、その可能性には一顧だにしなかった。
 自分が呪わしい。だが、くよくよしている時間はない。菊池先生はとりあえずの治療法としてステロイドの注射を勧めてくれた。だが、マージが今行っているホメオパシー治療と併用して問題がないかどうか、プレマの羽尾先生に確認しなければならない。明日の午前中の予約をして、別荘に戻る。マージは苦労しながらオシッコをした。立ち上がろうとして転ぶ−−抱きかかえ、別荘に連れていく。
 水を飲ませようとしたが、マージはそっぽを向いた。水で濡らした指先を口に押しつけると、面倒くさそうにぺろぺろ舐める。10分ほどそうし続けたが、やがて、マージは完全に横になり、わたしの指を舐めることを拒否した。
 ご飯は食べてくれるだろうか? 不安を覚えながらマージをそのままにしてワルテルと自転車に乗りに行く。
「ワルテル、しばらくスポーツパークや湯川には行けないからな。自転車で辛抱してくれ」
 10分ほどワルテルを走らせて別荘に戻った。マージは眠っている。また肉球に触れてみた。冷たい。
 ケーナインヘルスと馬肉を煮込む。入れ物に残っていた馬の血もケーナインヘルスに駆けてみた。ワルテルにはドッグフードとカテージチーズ。
 食事の支度をしていても、マージは寝たままだった。食欲のない時のパターンだ。
 ケーナインヘルスが冷めるのを待つ間、プレマに電話をした。血液検査の結果を、数値を含めて詳細に教える。
「とりあえず、マージちゃんが苦しんでいるのなら、ステロイドを使って症状を抑えてもらいましょうよ。その間に、ぼくもなにかホメオパシーでできることがあるかどうか、調べておきますから」
 ほっとする。羽尾先生が難色を示しても、わたしは明日、ステロイドを投与してもらうつもりでいた。マージは苦しんでいる。その苦しみと取り除いてやれるなら、なんだっていい。
 冷めた食事をおそるおそる寝ているマージの口もとに持っていった。マージは顔をあげ、食べ始めた。ほっと一息。だが、マージが食べたのは半分ほどの量だった。その後は、匂いは嗅ぐが食べようとしない。
 ケーナインヘルスに埋もれた馬肉を掘り出し、掌に載せてマージの口に持っていった。マージは食べた。もうひとつ−−食べる。わたしは我を忘れて馬肉を掘り出し、マージに与えた。すべての馬肉を掘り出し、それでも足りないとプロセスチーズを取ってきて与えた。マージは全部食べた。ワルテルに少し与えると怒った。
「よし、マージ、その調子だ。もっと怒れ、怒れ」
 マージの頭を撫でようとして、自分の手がケーナインヘルスでべっとり汚れているのにやっと気づいた。とんでもなく動転している。
 2頭の食器を洗い、ソファに腰を降ろして煙草を吸う。空腹を感じない。それでも、食べなければ。
 自転車でマツヤに行き、総菜を買ってくる。メンチカツとキンピラゴボウ、それにワカメのサラダ。一昨日炊いたご飯をレンジでチンして食べる。空腹感はメンチカツを噛むのと同時に復活した。身体がエネルギーを欲していないはずはないのだ。食べ終えて、マージの横に腰を降ろす。冷えきったマージの四肢を撫でさすった。ほんのり暖かくなってきたところで、イネイトのペンダントを回す。腕が動かなくなるまで回し続ける。

* * *

 マージは横たわったまま目を開けている。苦しいのかどうか、眠れないようだった。
「マージ、オシッコしに行こうか?」
 声をかけると力なく尻尾を振った。身体の下に腕を差し入れ、抱きあげる。外に出すとマージはふらつきながら歩いた。
「マージ、焦らなくていいから……」
 マージはいつもオシッコをする周辺をうろつき、また唐突に倒れた。だめだ。マージを起こし、脇の下にバスタオルを通して上から支えてやる。だが、マージは二度と歩こうとしなかった。
「オシッコ、我慢できるのか? だったら戻ろう。我慢できなかったら漏らしていいからな。恥ずかしいことでもなんでもないんだから」
 マージに囁き続けながら毛にまとわりついた枯れ葉を落とし、身体を拭く。マージはわたしのなすがままになっていた。
「すぐ戻ってくるからな」
 マージの身体が冷えないように犬用のシートをかけ、ワルテルを走らせるべく自転車に跨る。
「ワルテル、血液型が合ったら、血、マージに分けてくれるか?」
 勢いよく走るワルテルにわたしは懇願する。ワルテルは嬉しそうに走り続けている。
「でも、おまえ臆病だからなあ。痛くもないくせに、注射針刺さっただけできゃんきゃん喚くんだろう」
 ペダルを漕ぎながら、わたしは決心していた。明日、マージとワルテルの血液型が合致するかテストしてもらおう。だめだったら、ネットで知り合ったバーニーズ飼い仲間にお願いしよう。
 そのバーニーズ仲間が明日、また軽井沢にやって来る。先日のみくに家、ベントン家、さらにバーニーズを4頭飼っているまゆみ家が合流する。ワルテルをバーニーズたちと遊ばせてやりたかったが、マージの体調を考えると諦める他はない。
「残念だったな、ワルテル。でも、おまえにはまだまだたくさんチャンスがあるからさ」
 自転車を降り、周りに気を取られずにちゃんと併走してきたワルテルを思いきり褒めてやった。ワルテルは誇らしげに胸を張り、盛大に尻尾を振る。ワルテルがいてくれて助かっている。わたしひとりなら、崩れていたかもしれない。
 別荘に戻り、マージに粉チーズを入れた水を与えた。マージは寝たままだったがすべて飲み干した。ついでにプロセスチーズを千切って与える。これも寝たままながら食べた。最後に、薬を浸したバゲットを与える。マージは食べなかった。大好きなパンだが、もうこれ以上は食べられない−−そんな態度だった。
「よし、よく食べたな、マージ」
 心中の不安を押し隠し、笑顔でマージの喉を撫でてやった。マージの口を拭い、横たわって抱きしめる。ワルテルもやって来て、また我々は川の字になった。左手でワルテルのお腹に、右手でマージのお腹に触れる。ワルテルの若々しい生命力がわたしの手を通してマージに流れ込むイメージを頭に浮かべる。
 わたしのしていることは馬鹿げたことだろうか。それでもいい。わたしはそうしたいからそうしている。
 気がつけば、また眠っていた。夜の冷え込みは昨日より厳しい。広島のバロンの形見のマットをベッドのそばに敷き、その上にマージを横たえた。ワルテルはベッドの足元の方に勝手に移動している。
「オシッコしたくなったら、我慢せずに起こすんだぞ。遠慮なんてなしだからな、マージ」
 わたしはマージの鼻先に口づけして明かりを消した。
 
ぼくがマージを守るんだ……って、ホントかよ!?
ぼくがマージを守るんだ……って、ホントかよ!?
-
届いた靴下を穿かせる。滑り止めの効果は低くても、冷えた足先を温めてはくれるだろう。
届いた靴下を穿かせる。滑り止めの効果は低くても、冷えた足先を温めてはくれるだろう。
-
ここから2枚は北川さんの写真。
ここから2枚は北川さんの写真。
-
マージもワルテルも無邪気に写ってる。
マージもワルテルも無邪気に写ってる。






||   top   ||