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9月17日 軽井沢 65日目
今朝も寒い。目覚ましが鳴るのと同時に、マージが甲高い声で鳴いた。オシッコをしたいに違いない。
大慌てで支度をし、犬たちを外に出す。しかし、マージは屈むことができなかった。屈もうとして倒れ、そのまま動けなくなる。視線でわたしに助けてくれと訴えていた。
もちろん、助けてやるとも。病気には無力だが、おれはおまえのボスだ、マージ。できることはなんだってやって、おまえを守ってやる。
タオルでマージを支え、しばらく周辺を歩いた。ゆっくり、ゆっくり、マージの歩調にあわせて。だが、マージがオシッコをすることはなかった。
マージを別荘に戻し、ワルテルと自転車で出かけた。朝の空気はことのほか気持ちがいい。マージのことがなければ、遠出してやりたかった。
10分ほどワルテルを走らせて、別荘に戻る。マージは水を飲まない。食べないだろうと予感しつつも、朝ご飯の支度をした。
作り置きのスープに二〇穀舞入りご飯、包丁でミンチ状に切った馬肉、すりゴマ、ヨーグルト、各種サプリ。ワルテルにはご飯の代わりにドッグフード。他のおかずを少しずつ。
食器を寝ているマージのところに持っていく。マージはスープを少し舐めた。匂いは嗅ぐが食べようとしない。昨日と同じように馬肉を手に乗せると食べる。馬肉だけを食べるということは、食欲はないが身体が血の元になるものを欲しているということだろうか。マージは下痢をしているので生肉はよくないのかもしれない。しかし、血は必要だ。
ご飯とスープには見向きもしないので、プロセスチーズを与えてやる。これはすべて食べた。
菊池動物病院の予約は10時だったが、マージは呼吸が苦しそうだった。いたたまれず、車を駐車場から別荘の前まで移動させ、犬たちを外に出した。マージにオシッコを促すつもりだったのだが、久しぶりに車に乗れると思ったのか、マージは尻尾を振り、車に突進した。もちろん、ふらつく足取りで。そのまま病院に直行する。
ステロイドとビタミンB群や鉄などの血の元になるものを入れた薬剤を注射してもらう。これで少しは状態が改善するはずだと先生はおっしゃった。
ついでにマージとワルテルの血を採ってもらう。血液型が合致するかどうかテストするためだ。マージは多少不安そうな素振りを見せたが静かに採血を済ませた。問題はワルテルだ。先生が腕に触ったといっては「ヒン」と鳴き、注射針が刺さったといっては「きゃんきゃん」と喚く。痛いはずはない。ただ、怖いだけだ。
ステロイドと血液精製成分の入った薬をもらい、病院を後にする。そのまま別荘に戻ってもよかったが、喜んで車に乗りたがったマージの姿が脳裏を掠めた。こんな体調になってまでスポーツパークに行きたがっているのだ。天気もいい。歩くのは無理だとしてもひなたぼっこぐらいはいいだろう。冷えた身体にも暖かい陽射しが必要だ。
スポーツパークには、ワルテルがドッグランの柵を壊した時の怖い犬軍団がいた。
「ワルテル、吠えるなよ。ノー」
そう命じてみたものの通じるはずもなく、ワルテルは懸命に吠えた。一番怖い栗色のラブラドールが真っ先にすっ飛んでくる。続いてゴールデン、スタンダードプードルたち。リードに繋がれたままのワルテルは為す術もなく、怖い兄さんたちに小突きまわされた。
「この野郎、まだ懲りてねえのか!?」
犬軍団の勢いはそんな感じだった。ワルテルは甲高い声で逃げまどうだけだ。
なんとか飼い主が軍団を制止して、わたしはマージとワルテルをドッグランに入れた。柵のおかげで犬軍団に襲われることはない。芝生の上にシートを敷いていると、マージがよたよたと歩き、オシッコとウンチをした。ウンチは下痢便だった。昨日、ほとんど食べていないのに・・・。せめて食べるようになってくれ。歩けるようになってくれ。下痢対策はそれからだ。自力で立てなくなると、犬は内臓から弱って死んでいく。そのことが頭から離れない。
用を足し終えると歩けなくなったマージをシートの上に横たえる。わたしはその横に座って、グラウンドでボール遊びをする犬軍団を見守った。すぐに吠えようとするワルテルを制止する。
「おまえがむやみやたらに吠えなかったら友達になれたかもしれないんだぞ。見ろよ、あの犬軍団、他の群れとも楽しく遊んでるじゃないか。おまえが悪いんだぞ」
ワルテルは憤懣やるかたないという表情を浮かべて犬軍団を睨んでいた。
わたしはマージを撫でた。陽射しが心地いいのか、マージは気持ちよさそうにうたた寝していた。冷えていた身体も暖まっている。
10分ほどで犬軍団が去っていき、ワルテルも緊張を解いてわたしの靴の上に顎を乗せて眠りはじめた。
30分ほどそうしていただろうか。気持ちのいい時間だった。マージが立てなくなってから、初めての安らかな一時だった。連れあいもいれば良かったのに−−いや、日焼けするのがいやだといって車に残っていたかもしれない。
慌てて別荘を出たので、デジカメを持ってこなかったことが悔やまれた。柔らかな陽射しの下で寝ているマージとワルテルは、きっと絵になっただろうに。
* * *
別荘に戻ると、荷物が届いていた。歩行が困難になった犬の上半身を支えるためのハーネスとラジオフライヤー−−アメリカ製の子供用の乗り物だ。去年、不幸な病気で亡くなったバーニーズのみくにが、歩けなくなった後にラジオフライヤーに乗って嬉しそうに出かけていたのをみくに家のサイトで見て、マージが歩けなくなったら同じようにしてやろうと考えたのだ。
マージを居間のマットの上に横たえてやり、身体と足を拭く。気のせいか、肉球も昨日より暖かみを取り戻しているように感じる。
ワルテルの足を拭いて、わたしはベランダに出た。管理人室で工具を借り、ラジオフライヤーを組み立てる。英語の説明書と格闘して組み立てに費やすこと一時間。ラジオフライヤーは完成した。アメリカ製だけに見た目は可愛いがずっしりと重く、ごつい。これなら、マージが乗っても大丈夫だろう。
すでに12時を回っていた。さすがに、今日は空腹を覚える。マツヤに行き、ちらし寿司セットというものを買って帰る。
もう一度、マージの肉球に触れる。勘違いではない。肉球は暖かかった。絶好調の時ほどではないにしても。
* * *
くたくたに疲れ果てていて、肉体、精神ともにとても仕事のできる状態ではなかった。パソコンに向かい、文章を紡ごうとするのだが、頭の中には靄がかかったままで、一向に筆が進まない。
仕方なくネットを散策する。バーニーズ飼いの仲間たちがマージのことを心配してくれている。ありがたい。
3時過ぎに菊池先生からのメールが届いた。ワルテルの血はマージの血と混ぜても凝固しない。良かった。マージの貧血がこれ以上進むようなら、ワルテルの血で賄える。ワルテルがおとなしく採血させてくれればの話だが。
「頼むぞ、ワルテル」
ワルテルはベロを出しただらしない顔のまま眠りこけていた。
4時になるのを待って散歩に出る。マージは下痢便をした。一旦別荘に戻って、汚れたお尻周りの毛を丁寧に拭く。それからマージをラジオフライヤーに乗せて本格的な散歩に出た。
マージは「なんでこんなものに乗せられなきゃならないのよ」という表情を浮かべている。ワルテルはフライヤーの周りをぐるぐる回った。興味津々−−ぼくも乗りたい!
「おまえは歩け」
ワルテルの要望を却下して、わたしはラジオフライヤーを引っ張った。特注のエアタイヤをつけたフライヤーはマージに酷い振動を与えることもなく軽快に動く。軽快とはいっても、マージの体重と合わせれば40キロにはなる物体を引っ張るのだ。それなりの体力が必要とされる。
すれ違う人たちが真っ赤なラジオフライヤーに乗ったマージを見て目を丸くする。
どけ、どけ、どけ、お姫様のお通りだ。
途中、近くの公園でマージを降ろしてみた。マージはオシッコをし、2、3歩歩き、そのまま動けなくなる。
「無理しなくていいぞ、マージ」
動けないマージを抱いて、再びラジオフライヤーに乗せる。
「家でじっとしてるより楽しいだろう、マージ? おまえは幸せなんだぞ。ここまでやってもらえる犬なんて、滅多にいないからな」
15分ぐらい周辺を歩き回って別荘に戻った。マージは疲れた様子だったが、満足したようでもある。
ケーナインヘルスを煮て、熱々のうちにマトンの粗挽き肉の上にかける。お腹の具合を考えると生肉は与えたくなかったのだが、血の原料は吸収させたい。煮たばかりのケーナインヘルスと混ぜ合わせれば半生の肉になる。苦肉の策だ。
冷めるのを待って、ステロイドと下痢止めの錠剤、各種サプリをふりかける。マージが待ちきれないというように盛大に鼻を鳴らした。食欲が戻っているのだ。よかった。
ワルテルにドッグフードとカテージチーズを混ぜ込んだ物を与え、マージのところに食器を持っていく。マージは食べた。瞬く間に平らげた。まだ肉球は冷たい。歩いてもふらつく。だが、食べる。身体を動かすのに、命を維持するのに必要なエネルギーを補給できている。
「いいぞ、マージ。いいぞ、マージ」
食べているマージに、わたしは壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。食べているマージを見るだけで疲れも気苦労も吹っ飛んでいく。
食べ終えたマージの口の周りを拭い、横に腰を降ろして四肢をさする。マージは満足そうに唸ってから、目を閉じた。
* * *
6時半に家を出て「プリモ・ピアット」へ。みくに家、ベントン家、まゆみ家の7人がわたしを待っていた。
食前酒を飲みながらマージの現状を報告する。食欲が戻ったと話すと、一同の顔が綻んだ。犬が食欲を失うということの意味を、全員がわかっている。
前回とメニューが同じだったので、わたしはAコースを頼んだ。冷製そば粉パスタのコンソメがけ、地鶏のソテー、鯛のグリル、イベリコ豚のモッツァレラチーズ挟み。いやぁ、イベリコ豚、軽やかで香ばしく、これまでいろんなレストランでいろんなイベリコ豚料理を食べてきたが、どこよりも旨い。驚いた。
酒を嗜むのは4人で、白ワインと赤ワイン1本ずつで間に合うだろうと思っていたのだが、みくにパパさんが飲む、飲む、飲む。結局、白2本、赤2本のボトルが空になった。
料理に酔い、ワインに酔い、会話に酔い、かなり酩酊してみんなと別れた。徒歩一分の別荘に戻り、留守番をしていたマージとワルテルを褒め、撫でまくる。昼間より明らかに、マージは具合がよさそうだった。
「散歩に行こうか?」
声をかけるとマージは自分で立ち上がろうとした。
「まだ無理しなくていいよ」
マージとワルテルを外に出す。マージはまずオシッコをし、4、5歩歩いて立ち止まった。下痢止めが効いたのか、ウンチをする様子はない。
マージを別荘に戻し、ワルテルと自転車走。酔っているので短めだ。ワルテル、すまんな。
別荘に戻ると、マージに水を与えた。半分ほどを飲む。それから、菊池病院でもらった血液の製造を促すシロップのような薬をスポイトでマージの口の中に垂らす。犬が好む味付けがしてあるせいか、マージはシロップを飲みこみ、スポイトをべろべろと舐めた。
ソファに座り、葉巻に火をつける。数日ぶりにリラックスして葉巻を味わった。
12時ぐらいまでの記憶はある。犬たちに馬肉ジャーキーのおやつを与え、わたしはお茶を飲んだ。
気がつくとソファに座ったまま寝ていた。いつ目を閉じたのかも記憶にない。気絶するように眠り、寒さに目覚めたのだ。テレビもつけっぱなし。足元にはワルテルがいた。時計を確かめると午前3時45分。4時間近く、死んだように眠っていたのか。
身体の底に澱のように溜まった疲労を自覚しながらパジャマに着替えた。歯を磨く気力もない。マージをベッドの脇に横たえ、布団に潜り込む。犬たちに「おやすみ」と声をかける暇もなく、わたしは再び深い眠りに捕らわれていた。
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| なんなのよ、これは? |
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| いいなあ、ぼくも乗りたいよ! |
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| いいわ。しょうがないから付き合ってあげる・・・。 |
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