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9月18日 軽井沢 66日目
目覚ましが鳴ったが、身体が動かない。いや、昨日ソファで不自然な態勢で眠っていたせいか節々が痛む。まるでポンコツのロボットになったような気分だった。
20分ほど寝返りを打ち続け、やっと起きあがる気力を取り戻した。
マージは自力で立ち上がり、ふらつきながら玄関までやって来た。オシッコをし、しばらく歩き回るのを観察する。昨日よりはいい。一昨日よりは全然いい。下痢止めも効いている。10メートルほど歩いて動けなくなったマージをラジオフライヤーに乗せた。
「マージ、今日は雲場池まで行ってみるか」
ラジオフライヤーを引きながら敷地から出る。今日の陽射しはのどかで暖かかった。
フライヤーが気になってうまくヒールできないワルテルを叱ったりなだめたりしながら、えっちらおっちらラジオフライヤーを引いて歩いた。昨日と違って、マージの顔も綻んでいる。普通に歩けば5、6分で到着する雲場池まで倍以上の時間をかけて歩き、さらに池の周りを回った。鴨を見てワルテルが興奮する。リードがなければ池の中に飛び込んだのではないだろうか。マージも目で鴨たちの動きを追っていた。
我々を追い抜いていった散歩中の老人が振り返った。
「その子、怪我してるのかい?」
「病気で歩けないんです」
老人は表情を曇らせ、歩き去っていった。
池を一周して、来た道を戻る。もう30分近くラジオフライヤーを引いて歩き続けている。疲労困憊だった。だが、休む気にもなれず、わたしは歩き続けた。右手が疲れればフライヤーの持ち手を左に持ち替え、また左手が疲れれば右に持ち替える。
「楽しかったか、マージ?」
別荘の敷地にたどり着いて、わたしは荒い息を吐き出しながらマージに訊いた。
マージは笑っていた。それだけで充分だ。
朝ご飯の支度をはじめると、マージは催促の声をあげた。お腹減ったよ、お腹減ったよ、お腹減ったよ−−わかったよ、急いで作るからそうせかすな。
作り置きのスープを二〇穀米入りご飯にかけ、マトンの挽肉を軽くレンジでチンする。半生に焼けた肉と肉汁をご飯にかけ、各種野菜のみじん切り、ヨーグルト、すりゴマ、えごま油を混ぜ合わせる。ステロイドと下痢止めの錠剤、それに各種サプリをいつものように振りかける。
ワルテルにはドッグフードとマージと同じおかずを少しずつ。
食器を持っていくと、マージは待ちきれないとばかりに口を開けた。
「美味しいか、マージ? いっぱい食べろ。たくさん食べろ」
わたしの声はマージの耳には届かない。食べることに全身全霊を傾けているからだ。
食べ終えたマージの口を拭い、シロップの薬を飲ませる。
ソファに座って煙草に火をつける。腹は減っていなかった。だが、エネルギーは必要だ。シリアルに牛乳をかけて機械的に口に運ぶ。
マージの笑顔に癒されてはいたが、疲労はわたしを捉えて放さない。ソファに倒れ込み、わたしは目を閉じた。
* * *
昼前に目覚め、マツヤに食料の買い出しに行く。8月ほどではないが通りには人が溢れ、道は混み合っている。マツヤからの帰りにマクドナルドで月見バーガーセットを買って帰る。
食事を終えて、いざ仕事−−まったく進まない。5分おきにマージに視線が向かい、30分おきに冷えたマージの四肢をさする。結局、小説は諦め、葉巻に関する原稿を書いてお茶を濁した。そろそろやばいのだが・・・。
4時に犬たちを外に出す。歩行補助用のハーネスをつけ、後ろ脚の付け根にタオルを通してマージを支えた。だが、マージは一歩も動けず、用を足せなかった。
マージをラジオフライヤーに乗せ、散歩に出る。試しにワルテルのリードをフライヤーを繋いでみる。ワルテルが前進するとフライヤーは動く。やった! と思ったが、ラジオフライヤーは右に左に動く。改善の余地あり。一般の道では危険すぎてワルテルに引かせることはできない。
近くの公園でマージを降ろしてみる。マージはよたよたと歩き、オシッコをし、そのまま倒れた。濡れた股間をタオルで丁寧に拭き、ふたたびラジオフライヤーに乗せる。
マージの顔はほころんでいる。ならば、フライヤーを引くのは辛くないのだ。おれの身体が悲鳴をあげたって知ったことか。日頃の運動不足を呪うがいい。
マージの顔がほろこびっぱなしだったので、調子に乗って20分ほど歩く。さすがに40キロの物体を20分も引けば呼吸が荒れる。汗が出る。
マージを抱えて別荘にあげ、もう一度股間を綺麗に拭く。
「家の中でしてもいいんだぞ、マージ。マージの寝るところにはトイレシート敷いてあるからな。漏らしても汚くないぞ」
呪文のようにマージの耳許で囁いた。いずれ、我慢できなくなる時が来て、お漏らしをするようになるのは明白だ。今の内から、マージのプライドが傷つかないようにしてあげたい。言葉の意味はわからなくても、辛抱強く語り続けていれば、マージは理解してくれる。きっと、お漏らしすることよりおむつをあてがわれる方をマージは嫌うだろう。
ケーナインヘルスと馬肉を煮込む。ワルテルにはドッグフードのみ。おかずを用意してやる気力がなかった。
マージはひんひん鳴いて空腹を訴えた。よしよし。食べる気力がある間は大丈夫だ。
犬たちに食事を与え、今度は自分の食事を作る。本当は外食で済ませたかったが、マージのそばを離れるのも嫌だった。ブロッコリを切り、レンジでチンする。トンカツ用の豚ロース肉の筋を切り、塩胡椒し、小麦粉をまぶす。ボウルにウスターソース、トマトケチャップ、牛乳、バターを入れて混ぜておく。ロース肉をソテーし、焼き上がったら皿に移す。さらに空になったフライパンにボウルの中身を流し込み沸騰させる。
ちょっとしょっぱかったが表面は香ばしく、中身はジューシーに仕上がって美味だった。
お茶を飲みながらマージの頭上でイネイトのペンダントを回す。
頑張れ、マージ。おれとずっと一緒にいたいだろう? だから、頑張れ、マージ。
マージはわたしの膝の上に顎を乗せて眠った。ワルテルがやって来て背中をわたしに押しつける。バーニーズの癖だ。なぜか、正面からではなく背中を向けて座り、身体を押しつけてくる。
ワルテルの胸を撫でながらペンダントを回し続けた。
* * *
もう一度、歩行介助用ハーネスにタオルでマージを武装させる。少しずつ前進させ、オシッコとウンチを促す。やっとマージは腰を降ろした。四肢がぶるぶると震えている。そのまま崩れ落ちそうになる。優しく、しかし断固とした力でマージを支えた。マージのオシッコは途中で止まってしまった。
マージを別荘に戻し、ワルテルと自転車走に。ペダルを漕ぎながら、今後必要と思えるものを頭の中のリストに書きこんでいく。
バスタオルにハンドタオル。紙おむつはすでに用意してある。マージのお尻周りを刈り取るための鋏やバリカンも必要だ。犬用の流動食も用意しておいた方がいいかもしれない。水を喉の奥に送り込むためのスポイトのようなもの。インターネットで床ずれ防止用のマットが売っていたはずだ、それも手に入れよう。あ、水のいらないシャンプー粉も買わなければ。清潔好きのマージが、もう2ヶ月も身体を洗っていない。綺麗にしてやりたい。
今宵の夜気はじっとりと湿って重かった。自転車置き場に自転車を止め、荒い息を繰り返すワルテルをそっと抱きしめる。
「ワルテル、家に来てくれてありがとうな」
ワルテルは濡れた舌で、何度もわたしの耳を舐めた。
余裕がなく、本日は写真はない。あしからず。
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