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9月19日 軽井沢 67日目
マージの苦しそうな息で目が覚めた。マージはわたしを見上げた。開いた口から覗く舌が白い。血が足りていないのだ。昨日は一時的に回復していたが、また、一昨日の状態に戻っている。
「苦しいか、マージ?」
マージは切なそうな目をして、荒い息を繰り返すだけだ。またもマージを完全武装させて外に出る。マージは動かない−−動けない。ラジオフライヤーに乗せて、近所の公園に向かう。
「マージ、ここならオシッコとウンチ、できるんじゃないか?」
囁きながらマージを抱え上げる。その瞬間、マージは便を漏らした。柔らかく大きな塊が歩道に落ちた。わたしの腕の中で、マージは身体を強張らせていた。漏らしてしまったことが恥ずかしくてしょうがないという感じだった。
「いいんだよ、マージ。昨日からウンチできなかったもんな。辛かったもんな。漏らしていいんだ。マージが汚れたら、おれが綺麗にしてやるからな」
マージを公園の芝生に横たえ、ウンチの始末をする。それから持参したタオルを公園にある水飲み場で濡らし、汚れた毛を丁寧に拭った。ワルテルがマージの匂いを嗅いでいる。ワルテルなりに心配しているのだ。
「マージ、ワルテル、少し運動させてやらなきゃならないからな。ここで少し待っててくれ」
わたしはマージの頭を撫でてから、公園の中央に進んだ。リードを放してやると、ワルテルはマージのところに戻っていった。マージの周囲を歩き、匂いを嗅ぎ、わたしを見る。
マージが変だよ、助けてやってよ−−そう訴えているように思えた。
カムと命じてワルテルを呼ぶ。ワルテルの頭を撫でながら語りかける。
「マージは大丈夫、ちょっと休んでるだけだ」
納得したのかしないのか、ワルテルは久々にリードから放たれた喜びを全身で表現しながら走りはじめた。
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| 最初のうちは笑おうとしていたが・・・ |
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| すぐにぐったりしてしまった。
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| 公園でもこの通り。でも、芝生の上は気持ちよさそうだった。
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* * *
ご飯は食べないだろう。マージの様子を見てそう思い、バターロールを千切って、中にステロイドの錠剤を押し込んだ。パンとチーズは食べるはずだ。しかし、マージは差し出されたパンから顔を背けた。
「パンだぞ、マージ。大好物じゃないか」
それでもマージは食べようとしない。わたしは慌てて冷蔵庫からプロセスチーズを取りだした。これで食べなければ、様態はとことん悪いのだ。チーズを小さく千切り、おそるおそるマージの口もとに持っていく。
食べた。
次から次へと千切ったチーズを口もとに持っていく。だが、3つほど食べたところでマージはごろんと転がった。もういらないという意思表示だ。わたしの手元には半分以上のチーズが残っている。
途端に不安が押し寄せてきた。歩けなくてもウンチを漏らしてもご飯を食べなくても、パンとチーズを食べる気力があるならまだまだ大丈夫だと思っていたのだ。
ワルテルにドッグフードを与えてから、マージにマッサージを施す。マージは眠ろうと務めていたが、荒い呼吸がそれを邪魔していた。
わたしも食事を摂らなければ−−そう思うのだが、なにも喉を通過しそうになかった。そのまま一時間、マージのそばで励まし続けた。やっと呼吸が落ち着き、マージは眠った。時計を見ると10時を過ぎていた。
昨日マツヤで買っておいた鶏の唐揚げとオクラとヒジキの和え物で遅い朝食を取る。仕事をしようとパソコンを立ち上げ、メールをチェックしていると、マージがまた顔をあげた。苦しそうに息をしながらじっとわたしを見つめている。
「苦しいか、マージ? 我慢できないか?」
マージは答えない。ただ、わたしを見つめているだけだ。
仕事を諦め、菊池動物病院に電話をかけた。
これから連れていってもいいでしょうか?
だめだと言われたって連れていくつもりだった。
* * *
体温が40度7分。それなのに肉球は冷たい。とりあえず、解熱剤、抗生剤、ビタミンB群、アミノ酸の入った点滴を打ってもらうことになる。点滴には2、3時間かかるということだが、マージをひとりにするのは忍びなかった。ワルテルと一緒に、マージの点滴が終わるまでそばにいてやることにする。
慌てて出てきたので、携帯もデジカメも時間潰しのための本も持ってきてはいない。菊池先生の奥さんにお願いして、大量の雑誌を診察室に運んでもらう。
マージは居心地が悪そうだが、おとなしく点滴を受けていた。1時間ぐらいすると、荒かった呼吸が落ち着いてきた。わたしもほっとする。すると、睡魔が襲ってきた。
うつらうつらしていると、奥さんがサンドイッチと葡萄、お茶を差し入れてくれた。ワルテルがパンの匂いに我を忘れるのは当然だが、マージも顔をあげた。
「食欲あるのか、マージ?」
パンをあげたかったがマヨネーズが付いていて取りきれない。代わりに皮を剥いた葡萄を口もとに持っていく。マージは飢えた表情で葡萄を飲みこんだ。
食欲も少しではあるが戻ったのだ。あるだけの葡萄を与え、スタッフがワルテルのために用意してくれた水の入った食器をマージの目の前に置いた。マージは水を一気に飲み干した。
良かった。
結局、点滴にはほぼ3時間かかった。腰と頭が重い。先生に礼をいい、支払いを済ませて別荘に戻る。別荘の前まで車を乗り入れ、マージを降ろす。
「オシッコするか?」
わたしが声をかける前に、マージはよろめきながら歩き出し、腰を屈めた。崩れ落ちそうになるのを寸前で支えてやる。濃い黄色の尿が迸った。
「よし。よくオシッコしたな。偉いぞ、マージ」
マージの尻尾が2、3度揺れ、萎れた。
ご飯を食べるかもしれないと思い、火を通した馬肉に作り置きのスープをかけ、寝そべっているマージのところに持っていった。マージはスープを少し舐め、馬肉を一口食べた。それだけだった。
「じゃあ、これはどうだ?」
今朝食べなかったパンを与えてみる。マージはすべて食べた。
「まだ食べられるか?」
これまた、今朝食べ残したチーズを与える。マージは食べた。そして、眠りに就いた。ワルテルも即座に爆睡の態勢に入った。ひとりと2頭はすっかりくたびれ果てていた。
時計は午後3時を示していた。今日もまた仕事ができない。わたしは途方に暮れている。
* * *
まだマージの呼吸が苦しそうだったので、冷凍庫から保冷剤を取りだし、タオルにくるんでマージの脇の下に置いた。しばらくすると、若干ではあるが呼吸が落ち着いてきた。少しは体温が下がったのかもしれない。
夕方の散歩はさぼるつもりでいたのだが、爆睡していたはずのワルテルが時間になると目覚め、わたしの周りをうろつきはじめた。うむぅ・・・散歩の時間は決めない方がいい。犬の躾にはその方がいいとよくいわれる。わかってはいるのだが、仕事や日常生活のことを考えると、どうしても決まった時間になってしまう。
マージの様子を見ようと首を捻ると、トイレシートが汚れていた。寝たまま小便を漏らしてしまったらしい。本人は漏らしたことにも気づいていないようだった。新しいシートに取り替え、股間を拭いてやってからワルテルと自転車走に出る。
ワルテルは元気いっぱい。わたしがある程度スピードを上げても苦もなくついてくる。マージは自転車走が嫌いだった。わたしが自転車にまたがると、いつも拗ねたような顔をして渋々ついてきた。そのうち、わたしが折れて自転車には乗らなくなった。マージはゆっくりじっくり歩くのが好きだったのだ。若いころから。
20分ほどで別荘に戻り、マージの様子を見る。保冷剤のおかげか、マージの目に力が戻っている。これならご飯を食べてくれるかもしれない。
作り置きのスープをご飯にかけ、細かく切って火を通した馬肉、ヨーグルトを混ぜる。
「ご飯だぞ、マージ。腹減ってるだろう?」
マージはご飯の匂いを嗅いだ。だが、それだけだ。食べようとはしない。なにかをわたしに訴えようとしている。
「パンか? チーズか?」
パンにステロイドの錠剤を詰め込んで口もとに持っていく。マージは食べた。ロールパンを一つ食べ、プロセスチーズを二つ食べた。少しずつではあるが、食欲は回復の兆しを見せている。
ワルテルにはドッグフードに馬肉少々、それにスープをかけたものを与える。ワルテルは最近お腹の具合もすこぶるいい。毎日3回、固くてぷりぷりしたウンチをひりだしている。
6時に電話が鳴った。週刊文集のB嬢が「楽園の眠り」に関してインタビューするためにやって来たのだ。しばし考え、唯川大姐からのメールを思い出した。「藤村」の師匠が、わたしのためにパスタに合うキノコを用意してくれているというメールだった。マージのことがあるのでいつ行けるかと考えていたのだ。ならば、今日行こう。
B嬢に「藤村」の場所を教えた。マージもワルテルも穏やかに眠っている。わたしは別荘を出た。
のどぐろの塩焼き、戻りガツオの刺身、野菜の串焼き、天然鰻の白焼きと蒲焼きを食べながらインタビューを受けた。鰻が抜群。身はぷりぷりで皮も厚く香ばしく焼けている。
師匠は八ヶ岳の麓からこちらに向かっているという話だった。間に合えばよし、間に合わなければ後日顔を出そう−−そう思っていたら、師匠がやって来た。
大量のハタケシメジをもらう。ついでにこれも持っていけと太くい松茸を3本ほどもらう。B嬢が涎を垂らしたので、師匠は気前がよくなり、松茸を焼き、ハタケシメジをホイル焼きするように店員に指示を出した。
何度食っても旨いのう。ハタケシメジも絶妙の歯ごたえ。さらに鮎の甘露煮も出てきて、わたしの胃はいつものようにはち切れそうに膨らんだ。
気分が良かった。もっと飲んでいたかった。だが、マージがわたしを待っている。話し足りなそうな師匠に詫びを入れて帰宅する。両手にビニール袋−−キノコ類に鮎の甘露煮にふかしたサツマイモ。お土産のオンパレード。いつもいつもありがたい。
「お待たせ。散歩に行こう!」
マージを完全武装させ、抱きかかえて外に出る。それだけで息が上がった。飲み過ぎ、食べ過ぎだ。ハーネスとタオルでマージを支えておしっこをさせる。ウンチもさせようと試みたが、無駄だった。いずれにせよ、マージは今日はほとんど食べていないに等しい。
マージを別荘に戻し、またワルテルと自転車走。今日の空気もどんよりと重く、湿っている。
別荘に戻り、ワルテルの呼吸が落ち着くのを待って、お土産にもらったサツマイモを夜食として与える。マージは旺盛な食欲を示した。調子はかなりいいみたいだった。
帰る途中で買ってきたポカリスエットを飲みながら、マージの頭上でイネイトのペンダントを回した。マージは眠りに就く。呼吸も正常だった。
新しい保冷剤をタオルにくるみ、寝室のマージの寝床に置く。マージを抱え上げ、静かに横たわらせる。腰が重い。スペースのある屋外でなら、腰を曲げずに抱きかかえることもできるのだが、狭い室内ではどうしても腰を屈めてしまう。腰に負担がかかってしまう。
腰を痛めたら、マージを抱いてやることができない。なにか対策を考えないと。
マージとワルテルにキスをして、わたしは寝室の明かりを消した。
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