軽井沢日記
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9月20日 軽井沢 68日目

 目覚ましで目覚める。気温は高くはないが、空気がじっとりと湿っている。マージはベッドの足元の方に移動していた。立てないのだから、何度も寝返りを打っているうちに移動してしまったのだろう。役立たずの保冷剤がマットの上に寂しく鎮座している。
 マージは調子がよさそうだった。呼吸も正常で、舌にも若干、赤みが差している。いつものように完全武装させ、抱えて外に。支えながらおしっこをさせる。ウンチはしない。
 ラジオフライヤーに乗せて、近所の公園に。マージは昨日とは違って、にこにこしながらフライヤーの上で揺られていた。
 公園でウンチをさせてみようと試みたが、上から支えても、マージは2、3歩しか歩けなかった。芝生の上に寝かせ、ワルテルのリードを放して好きに遊ばせる。マージは目を細めてワルテルの様子を見守っていた。
「晴れて空気がからっとしてたら気持ちいいのにな」
 わたしはマージの傍らに立って空を見上げた。今夜は雨かもしれない。
 公園で10分ほど時間を潰し、またマージをフライヤーに乗せる。軽井沢駅まで歩いて、そこから引き返した。マージはフライヤーの上でうたた寝をしていた。途中、コンビニで乳酸菌飲料を買った。
 別荘に戻り、水の代わりに乳酸菌飲料をマージに飲ませる。はじめ、マージは「飲んでいいの?」という顔をした。わたしがうなずくと、勢いよく飲みはじめた。すぐに器が空になる。食欲がありそうだったので、急いでケーナインヘルスを煮る。マトンの挽肉をレンジで解凍し、ケーナインヘルスと混ぜ合わせた。
 ワルテルには昨日、マージが口をつけなかったご飯−−スープにご飯、馬肉にヨーグルト−−に各種野菜のみじん切り、マトンの挽肉少々、すりゴマ混ぜたものを与える。
 ワルテルはもちろん、マージも久々に完食した。素直に嬉しい。
 わたしは例によってシリアルに牛乳をかけて食べた。
 パソコンを立ち上げ、ネットを散策すると、この日記を読んだバーニーズ飼い仲間がとあるBBSに書き込みをしていた。
「馳さん、ドライシャンプーより、入浴剤のコラーゲン配合のバスロマンを少しお湯に溶かして、タオル絞って、それで身体を拭いてあげた方がずっと綺麗になりますよ」
 その意見に、多くの人が(すべて女性)賛成している。わたしはお礼の書き込みをし、早速ツルヤに向かった。
 バスロマンとベーグル2個、キャベツメンチカツとエビカツを買って帰る。
 昼飯はベーグルにそれぞれのカツを挟んだサンドイッチと野菜ジュース。相変わらず、旨い。

完全装備のマージ。
完全装備のマージ。
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昨日とは表情も全然違うよな。
昨日とは表情も全然違うよな。
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そんなふうに笑ってくれるなら、どこまででも引っ張っていくぞ。
そんなふうに笑ってくれるなら、どこまででも引っ張っていくぞ。


* * *

 マージは安らかに眠っている。わたしも久々に仕事に集中できた。いや、集中するしかなかったのだ。締切−−作家に鞭をくれる魔法の言葉だ。
 集中できたおかげで、3時半にはノルマを達成した。できれば他の作品の遅れを取り戻したかったが、そんな余力のあるはずもない。
 4時に犬たちを外に出す。ハーネスとバスタオルで支えながらマージにおしっこをさせる。支える時の力具合とタイミングが飲みこめてきた。マージにかかるストレスも減っただろう。
 マージをラジオフライヤーに乗せて近くの公園へ。しかし、小学校低学年のガキどもが公園で遊んでいた。別の公園に移動する体力も気力もないので、仕方なくマージを降ろす。また上から支えてウンチを促す。だが、マージはガキどもに気を取られてそれどころではない。ワルテルのリードを外し、ガキどもを追い立てさせる(嘘、遊ばせる)。ワルテルは嬉しそうにガキどもを追いかけはじめた。
 雪音を投げ飛ばした時のような無茶なことはしない。見知らぬ相手だということで用心しつつ、うまく距離を取ってガキどもを追って走っている。
「走るなよ。走るとどこまでも追いかけてくるぞ。怖がってもだめだ。怖がったら調子に乗って吠えてくるぞ。絶対に噛まないから、勇気出して触ってみろ」
 ガキどもに犬と遊ぶ時の注意点を教えながらマージをゆっくりゆっくり歩かせる。だが、マージは結局ウンチをしなかった。諦めてフライヤーに乗せる。すると、ガキどもの興味はワルテルからラジオフライヤーに移った。
「ねえ、これ引っ張りたい」
 少しだけ年長がガキが訴える。引っ張りたいじゃなくて引っ張らせてください、百歩譲って、引っ張ってもいい? だろうが、クソガキめ、親を呼んでこい、面を拝んでやる−−喉元まで出かかった言葉を飲みこんだ。マージの気分転換になるかもしれない。逆にストレスになるかもしれないが、多少緊張した方が老いた心に刺激が加わるかもしれない。
「この犬は病気だから、ゆっくり、衝撃が強くならないように引っ張るんだぞ」
 ガキどもは歓声をあげ、フライヤーとマージに群がった。マージはきょとんとした顔でわたしを見ていた。
「みんな、マージと遊びたいってよ。付き合ってやれよ、マージ。たまにはいいだろう?」
 ガキどもが代わりばんこでフライヤーを引っ張る。しばらく見守っていたが、スピードをあげるなというわたしの指示は、すぐに無視された。
「とめろ!」
 わたしは大声で叫んだ。ガキどもがびくりと身を震わせ、動きを止めた。
「スピード出すなっていっただろう。約束守れないやつには引っ張らせないぞ」
 おそらく、親や教師以外の大人にこんな強い口調で叱られたことはないのだろう。ガキどもは目の奥にかすかな怯えの色を浮かべ、おとなしくわたしの言葉に従った。
 公園を一周させて、フライヤーの持ち手をガキどもから奪い取る。
「もっと遊ばせてやりたいけどな、病気だから疲れちゃうんだ。また別の日に遊ぼうな」
 名残惜しげなガキどもの視線を無視して歩き去った。
 マージはほっとした顔つき。ワルテルは何度も後ろを振り返る。
「もっと遊びたかったか、ワルテル? だけど、おまえ、興奮してきたら見境つかなくなるだろう。あのガキどもが怪我したら面倒くさいことになるからな」
 わたしがガキだったころには、近所には必ず一頭ぐらいの心優しい犬がいて、我々人間のガキどもに犬とどうやって接するか、遊ぶかを教えてくれたものだ。東京だろうが軽井沢だろうがどこの田舎だろうが、今のガキどもはなにも知らない。放し飼いの犬や野良犬がいないこともあるだろう。しかし、結局は親のせいだ。他人にものを頼む時の口の利き方も教えられないのだから話にならない。
 別荘に戻り、早速バスロマンを試してみる。洗面台に湯を張り、バスロマンを溶かす。そこにタオルを突っこんで、絞る。それから、マージにブラッシングする。
「マージ、綺麗になろうな」
 丁寧にじっくりゆっくりと毛の根元から先端に向かってタオルで拭いていく。マージははじめ、戸惑っていたが、やがて気持ちがいいのか身体から力を抜いてなすがままになった。何度も何度もタオルをゆすぎ、お尻周りを念入りに拭く。芳香剤の香りがかすかに漂って、マージはぴかぴかになった。
「良かったな、綺麗になって。また、明日もしてやるからな」
 マージを寝床に移動させ、待ちくたびれて玄関で寝ていたワルテルを叩き起こす。ワルテルも拭いてやろうかと思ったが、体力も時間もなかった。長い時間屈んでいたせいで、腰がますます重くなっている。
 ケーナインヘルスを煮込み、細かく切った馬肉にかけて混ぜ込む。冷めてからカテージチーズ少々を足し、各種サプリ、ステロイドの錠剤をトッピングしてマージに食べさせる。食欲は旺盛だ。
 ワルテルにはドッグフードにカテージチーズ、馬肉ほんの少々。こちらも完食。
 少し休憩してから、車に乗りこんで軽井沢駅に連れあいを迎えに行く。いつの間にか、深くて濃い霧が立ちこめていた。ヘッドライトをハイビームに切り替えても、50メートル先が見えない。
 改札口を抜けてくる連れあいを見つけて、肩から力が抜けていった。今日からはひとりではない。連れあいがマージの介護を助けてくれる。どれだけ助かることか。遅れている仕事も、少しは取り戻せる。
 連れあいが戻った事を知ってワルテルが狂乱する。マージも床に伏せたまま尻尾を振り、歓迎の意を表すために何度も吠えた。連れあいはマージに抱きつき、さめざめと泣いた。
 そうか、すっかり忘れていたが、立てなくなった、歩けなくなったマージに、連れあいは初めて接したのだ。
 連れあいと犬たちをそっとしておいて、わたしは人間の晩ご飯の支度をはじめた。師匠からもらったキノコはすでに泥を落とし、適当な大きさに切ってある。湯を沸かし、パスタを茹で、フライパンでガーリックバターを溶かし、キノコを炒める。赤唐辛子の輪切りと醤油少々を投入、茹であがったパスタと茹で汁少々をさらに投入して絡める。試食してみると、満足のいく味に仕上がっていた。
 素材がいいのだ。後はその素材の味を殺さないように気をつけるだけでいい。
 パスタを食べ、コーヒーを飲み、今後のマージの介護に関して連れあいと話し合う。連れあいは時々泣いた。泣きながら、あなたは悲しくないのと問うてくる。
 ひとりでいる間にたくさん泣いた−−わたしは答えた。

* * *

 レンタルで借りていた「モンスター」という映画のDVDを見た。シャーリーズ・セロンが役作りのため20キロ近く体重を増やし、不細工メイクで体当たりの演技をしていた。内容には満足したが、最後に流れるテロップで興を削がれた。ハリウッドの人間はなんでもかんでも説明したがる。手取り足取り教えてやらねば観客はストーリーを理解できないと思いこんでいるようだ。主人公のその後ぐらい、見る者の想像力に委ねればいいものを。
 映画を見終えて、マージを外に出す。ワルテルは連れあいが見ていてくれる。それだけでも大違いだ。わたしはマージに排泄させることだけに専念できる。
 わたしに支えられながら、マージはオシッコをした。だが、ウンチはでない。オシッコをすることだけで体力を使い果たし、動けなくなるのだ。動かないマージと共にしばし佇み、もう一度促してみる。マージは5メートルほど歩いた。だが、それが限界だった。
「よし、戻ろう、マージ」わたしはマージを抱きかかえた。「苦しかったら家の中でしていいんだからな。全然恥ずかしいことじゃないからな」
 マージの耳許で囁く。マージは荒い息を繰り返していた。
 床に横たえたマージを連れあいに任せ、自分の番を待ちかねていたワルテルに声をかける。
「行くぞ、ワルテル」
 ワルテルは飛びあがって喜んだ。
 霧の中を自転車で走る。
「ワルテル、お姉ちゃんが戻ってきて嬉しいか?」
 ワルテルは表情を崩して走っている。
「マージが元気になったら、もっと嬉しいのにな」
 ワルテルは走り続けている。どこまでもどこまでも走れそうな若々しい活力を漲らせて、ワルテルは霧をかき分けている。

ねえ、ぼくの写真も撮ってよ!
ねえ、ぼくの写真も撮ってよ!





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